とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

フットボール批評 issue25

 今号の特集は「哲学するフットボール」。実に魅力的なテーマ。だが、サッカー界において「哲学」という言葉は、「理念」や「基本的方向」といった意味で使われることが多い。だから、「サッカーの人生における意味」とか「人は何ゆえにサッカーに興じるのか」といった内容の記事はひとつもない。今福龍太や細川周平などの記事が読めればうれしいが、そういうことはない。

 それでも、オシムや片野坂監督、ペトロヴィッチ監督らへのインタビューは興味深いし、ボーンマスのエディ・ハウ監督やFC岐阜北野誠監督の記事も面白く読んだ。中でも、タバレス監督が培ってきたウルグアイ・サッカーの哲学「歩む道そのものこそ報酬」は読み応えがある。日本はオシムが言う「日本のサッカー」を作っていけるのか。森保監督に期待するところ大。コパ・アメリカを分析する記事も面白かった。

 一方、本誌初登場の橘玲の記事は、いつもながらの偏見と牽強付会が気になる。書籍紹介では「新GK論」推しなんだけど、どうしようかな。一応、プレゼント応募しておこう。

 

フットボール批評issue25 [雑誌]

フットボール批評issue25 [雑誌]

 

 

○日本はW杯ロシア大会のベルギー戦で最後にカウンターでゴールを奪われた。そしてそれは日本サッカーの哲学を考えるきっかけになった。またきっかけにしなくてはいけない。なぜああいうことが起こったのかを分析するのが、哲学に帰結するのだ。まずはピッチ上で起きた事件から議論が出る。議論が百出して、沸騰する。それを集約することが哲学になるのだ。(P8)

○クロップの哲学は、『人間は間違いを犯す、それはおかしなことではない。サッカー選手たちも間違いを犯す。それもおかしくない』。ミスを受け止めているのが彼の真骨頂だ。それはすべてのチームにとって大事なこと。選手には間違う権利がある。(P11)

○サッカーはずっと一緒だから。11対11で、ピッチサイズの105×68は変わってない……。だから長きにわたって結果を出し続ける小林伸二さんがいちばんすごい。あれこそ究極のリアリストでしょう。その対極のロマンチストが風間さんや大木さん」/北野監督はどういう位置にいるんですか。/「俺は…中途半端だね(笑)。だって、そういうチームしか率いたことがなくて、自分の色が出せなかったもの。(P83)

○今、ウルグアイ代表の選手たちに「チームのアイデンティティとは何か」と尋ねると、誰もが「謙虚さ、リスペクト、帰属意識、団結力」と答える。奢り高ぶることのない謙虚さ、敵と仲間に対する敬意、集団の一員であるという自覚。歩む道の大切さを説くことによって伝えられた人生訓とも言うべき教えの数々が、一国の代表チームを構成する若者たちの意識に宿っている。他バレス監督は、タイトルよりも価値あるものを母国に与えた。国の誇りであるラ・セレステを文字通り支える「土台」だ。(P107)

 

「あいちトリエンナーレ展」のその後を危惧する

 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」を巡る騒ぎがなかなか収まらない。だが、河村市長や大阪府の吉村知事らが騒ぎ出した時とはだいぶ様相が変わっている。彼らは最初の火を付けただけで最近は静かだ。代わって騒いでいるのは表現者の側。「表現の不自由展・その後」を中止したことに対して非難し、再開を求めている。15日には大学教授や弁護士らが大村知事等に対して署名を提出した。こうした状況を受けて、芸術監督の津田大介氏が謝罪をし、愛知県では検証委員会を設置することとなった。

 私は「『表現の不自由展・その後』で展示されたもの」で書いたとおり、「表現の不自由展・その後」で展示されたのは、実は河村市長などの「表現の自由を阻害しようとする者」たちの言動ではなかったかと思っているが、その後の展開は、「表現の自由を求める者」たちの言動もまた同時に「展示」される状況となった。これはたぶん津田監督らにとっては予定外の展示物ではなかったか。しかしそのために、本来、展示され、明らかにされるはずだった日本の「表現の不自由」な状況が、かえって不透明になってしまった。これは「表現の自由を求める者」たちにとっても不利益なことではないのか。

 「表現の不自由展・その後」への出展者や実行委員会が憤るのはわからないではないが、憤る相手はトリエンナーレの主催者ではなく、「表現の自由を阻害しようとする者」であるべきだ。15日の署名は大村知事だけでなく、河村市長に対しても提出されたというが、「表現の自由を阻害しようとする者」に対してこそ、しっかりと批判すべきではないか。結局、言いやすい相手に対してだけ非難しているように見える。

 そして、トリエンナーレの他の会場に出展している海外作家からも展示辞退が相次いでいるという。このような状況は次回以降の「あいちトリエンナーレ」の開催にとって大きな痛手となる。私は「あいちトリエンナーレ」をこれまで、初回から3年前に開催された第3回まですべて鑑賞してきた。特に前回「あいちトリエンナーレ2016」は、建築評論家の五十嵐太郎氏が芸術監督を務めたこともあり、建築系の展示が多く、大いに楽しんだ。こうした芸術監督によって内容が変わるテーマ性に加えて、多くの海外作家が出展することも「あいちトリエンナーレ」の大きな魅力の一つだろう。今回、ジャーナリストの津田大介氏が芸術監督になるということを最初に聞いた際には、どんな展示になるのだろうかと思ったが、確かに相当にジャーナリスティックなトリエンナーレになった。そのこと自体はいいと思うが、そうした状況に、出展した作家やその他の芸術家、芸術の専門家たちが付いていけていない。

 彼らは日頃、自らの芸術作品はどこで展示をしているのだろうか。たぶん民間のギャラリーなどではないか。そこで今回、彼らは展示中止を決めた主催者に抗議をしてしまったが、実はたとえ3日間でも展示をしてくれたトリエンナーレ主催者に対してはそれ相応の感謝をしてもいいはずだ。面白いニュースが飛び込んできた。スペイン実業家が「平和の少女像」を購入した。来年には私設の「フリーダム・ミュージアム」を開設し、他の「表現の不自由」な作品とともに展示するという。スペインと言えばピカソの母国。あの「ゲルニカ」も大いなる体制批判の作品である。「表現の不自由」な作品が展示される国としてふさわしい。バルセロナの観光価値はさらに高まることだろう。

 そしてそれらの「表現の不自由」な作品の展示を認めない国、ニッポン。今回、主催者に抗議をしている「表現の自由を求める者」たちも、この行動が日本の「表現の不自由」度にどう影響するのか、よく熟慮してもらいたい。個人的には今回の騒動が、次回「あいちトリエンナーレ」の開催を困難にしないかと大いに危惧している。

富山は日本のスウェーデン☆

 「幸福の増税論」を皮切りに、今年なって井手英策の本を続けざまに読んでいる。井手英策は自身も自覚しているように、2017年の民進党政策立案に参加して以来、すっかりリベラルな学者という評価が定着してしまったようだ。本書もタイトルだけを見れば、富山におけるリベラル的な政策を紹介する類いの本かと思ってしまう。だが富山が保守大国ということは井手氏も本書の冒頭で言っている。「富山は日本のスウェーデン」というタイトルは、富山県の保守的な政治や風土によって育まれてきた現状が、スウェーデンなどの社会民主主義的な政策が目指している理想に近いということを言っているのであり、どうしてそういうことが起きるのかという点について富山を調査することで考察するという趣旨の本である。

 主義や思想はどうあれ、自由で公正で連帯できる社会に向かうための「公・共・私のベストミックス」への模索と闘いが保守王国の富山で続けられ、成果を挙げている。一方で、その内側では女性抑圧や地域社会の柵などの現実があることも忘れてはいない。だから、富山方式を称賛するだけの本ではなく、こうした現状を見つつ、今後の政策について考える問題提起のための本だ。

 一部では本書に対する批判(例えば「『富山は日本のスウェーデン』ではない。自民党の家族観・女性観と変わらない井手英策氏の『富山モデル』:wezz-y」)もあるようだが、そもそも井手氏は「富山モデル」と称賛してはいないし、「自民党の家族観・女性観の中から生まれた『富山モデル』をどう評価すべきか」ということをまさに井手氏は問うているのではないか。そして向かうべき方向は「公・共・私のベストミックス」。それは自民党方式でもなく、スウェーデン方式でもなく、各地の状況の中で追求されていくべきもの。そのように私は本書を読んだ。そして興奮した。

 普遍的でベストな政策などあり得ない。それでもこうして真っ直ぐに政策研究・政策提案をしていく井手氏の姿勢は高く評価したい。次の著作にも期待したい。

 

 

○富山社会に見られる「ゆたかさ」は、表面的に見れば、西欧型福祉国家社会民主主義的志向と相通じている点が多い。だが、それはヨーロッパのように福祉や教育を社会化し、公共部門が供給するという政治志向、あるいは自由・公正・連帯という社会規範の定着を必ずしも意味しない。/まず、厚みのある伝統的な社会経済基盤があり、その諸機能を地方自治体が補完し、かつ公共部門への人びとの依存を全体として抑えながら、一見すると社会民主主義的に見えるような生活の好循環が実現されているのである。……富山を「保守的な社会だ」と斬って捨てることは簡単だ。……だが……保守的だと切り捨てる前に、保守的なものの内側で起きつつある変化の兆しをうまくつかまえ、より、自由で、公正で、連帯できる社会をめざすことは論理的に可能だ(P74)

舟橋村はこれまでのような福祉や教育などの「サーボス・プロバイダー」から、共助、助けあいの「プラットフォーム・ビルダー」へと姿を変えようとしている……彼らは公共投資を土台に人間と人間のむすびつきをつくろうとしている。……行政サービスを民間事業者から見ても価値のある投資対象に変えようとしている。また……長期的に見た行政コストを下げるという視点も加わっている。/いわば、住民ニーズをみたすために社会資源を総動員する、「公・共・私のベストミックス」を模索するための闘いがつづけられているのである。/こうした動きは、共生を重視し、みんなのため、子どものためなら「ひと肌脱ぐ」こともいとわない、そんな「富山らしさ」の新しい表現のようにみえる。コミュニティに任せる・丸投げするではなく、関係をつくる、という視点への転換だ。(P171)

○人口が増え、経済が安定的に成長し、将来をある程度予見できる時代はよかった。だが、それらの前提がくずれたとき、人びとは生存と生活の不安におびえはじめることとなる。/すると、公であれ、共であれ、私であれ、人間はみんなのニーズを満たしあうために協働を始める。そのことを富山の人たちは教えてくれている。……社会主義社会民主主義保守主義、家族主義といった器の問題ではないのだ。……社会化や普遍主義化を余儀なくするような時代の条件変動がいま起きはじめている。そしていま僕たちは、僕たちがどう生きていく、暮らしていくために必要なものごとをどのように社会化し、普遍化していくかをするどく問われている。(P211)