とんま天狗は雲の上

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ポスト戦後社会

 日本近現代史シリーズの第9巻。いよいよ高度成長期以降、現在までの現代史になる。第10巻は全巻を通じての歴史考察となるので、これが最後の時間軸での歴史記述である。
 1970年代の左翼運動から始まる記述は、私自身は小中学生ながら、事件の発生は覚えているので、その解釈については「そういうことか」と納得をする。その後、大阪万博後の大量消費社会、田中角栄の日本列島改造、ロッキード事件等を経て、中曽根首相の新保守主義政治、バブル崩壊失われた10年、そして現在に至る。
 このあたりの筆致は、岩波新書らしい社会批判的なスタンスであるが、日本の現状を考えれば、過去を批判的に見ざるを得ないのは事実だ。筆者の吉見俊哉社会学者であり、こうした書きぶりになるのは当然である。大澤真幸見田宗介他の多くの社会学者の分析等からの引用も多い。
 深刻なのは現在である。新自由主義グローバル化、消費社会を経た国民意識の変化と家族の変容。これらに今の日本は大きく引き裂かれようとしている。「企業の海外移転と国内産業の空洞化、外国人労働者の大量流入、海外旅行の大衆化と文化移民、メディアの世界での「日本」の消費といった」(P221)変化に、日本という国家自体が変容し、崩壊してしまうのではないかと危惧する。

●変化は、現在も進行中であり、将来、この国の在り方を根底から変えてしまう可能性がある。その重大な含意は、そもそも本書のシリーズの主人公である「日本」という歴史的主体が、すでに分裂・崩壊しつつあるのではないかという点にある。(P220)

 これは日本だけのことではなく、国民国家自体の崩壊と新しい世界秩序の始まりを示しているとも言える。
 最後の「あとがき」で「歴史とは何か」と問い、以下のように記述する。

●歴史とは、時間的である以前に空間的なものである。・・・歴史とは、この空間の広がりの記述であり、単一の「通史」は存在しない。近代のいずれかの段階で、国民国家や帝国、植民地、資本主義と、諸々の巨大なシステムが地響きを立てて蠢いていくなかで、たとえば日本史という、連続的な時間性としての歴史が浮上してきたのだと思う。だから日本史は、その存立の根底にある種の虚構性というか、抽象性を抱え込んでいる。(P239)

 考えようによっては、このシリーズ自体を疑問視するような、日本史という国単位での歴史記述に対する虚構性を訴える記述は、現代日本の国家としての深刻さを物語るものでもある。だからこそ、今、日本の歴史研究が重要だと言える。次巻の内容が楽しみだ。

ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)

ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)

●1972年の連合赤軍事件は、60年代までの「思想による自己実現」の時代は、70年代後半以降の「消費による自己実現」の時代へと転位していくまさしく中間で起きた出来事である。(P13)
●「失われた10年」はしかし、単なる停滞と失敗の時代だったのではない。社会の表面で停滞が続くなか、その背後では確実に歴史的な構造変化が始まっていた。この変化は、あらゆる面でグローバリゼーションと連動する(P169)
●今日、「日本」は二つの異質な存在に分裂しつつある。一方には、・・・グローバル資本の一部としての「JAPAN」がある。他方で、そのようなグローバル化する資本に取り残され、崩壊する地場産業や限界状態に達した農村のなかでもがく「国土」がある。・・・中曽根内閣から小泉内閣までの新自由主義は、この乖離を是認し、むしろ前者が世界的な存在に発展していくには、後者の切り捨てもやむを得ないとするものであった。(P207)