とんま天狗は雲の上

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大計なき国家・日本の末路

 クライン孝子が保守派の論客であるという認識はあったが、戦後処理の日独比較といった内容に興味を持って本書を手に取った。
 2章で綴られる戦後ドイツ人捕虜の悲惨な体験には驚いたし、米ソ冷戦最前線の分裂国家としての歴史は国民にしたたかさと動じない芯の強さを要請したことは十分理解できる。また戦後の情報戦略の有無や旧軍人の処遇の違いから、日本が依然米国の属国であり、国家の体を為してないと嘆くところはうなずけないこともない。
 しかし日本もドイツのようになれ、と言っても無理な話である。また違う状況下でドイツのように振る舞っていたら、今の日本はなかったかもしれない。第二の北朝鮮だった可能性も否定できない。
 内田樹流にいえば、「それで何かお困りでも?」という感じ。日本は米国の属国になることでこれまでの繁栄と平和を手にしてきた。ボケと言われようが、カスと言われようが、平和であったことは事実であり、それは国民にとっていいことだったのだ。これまでは。だから今になって、終戦後からドイツのようであればと言っても、はいそうですか、とは簡単には同意できない。問題はこれからどう生きていくかだ。
 本書を読んでいてどうしても気になる点がある。それは国家と国民とどちらを大事にすべきかという視点だ。もちろん国家がなくして国民はあり得ないと言うだろうが、国家のために死ぬことが人としてすばらしいとは思わない。オバマ核兵器縮減でノーベル平和賞を受賞したように、やはり戦争はない方がよいし、軍備も少ない方がいいに決まっている。
 ところで、クライン孝子といい、曾野綾子といい、櫻井よしこといい、どうしてこうも勇ましい女性論客がおおぜいいるのだろうか。彼女らはどうみても戦場で自ら戦おうと考えているとは思えない。戦うのは男性だ。「男性よ。私たちのために戦え!」と言っているのだ。男性が戦わねば、私たちは幸せになれないと訴えているのだ。それは彼女たちのためである。しかし、彼女たちのために死にたいとは思わない。死なないでほしい。私のために戦わないでほしい、と言ってくれる女性のためにこそ男性は死ねるのではないか。
 ドイツと日本の戦後観の違いはよくわかった。しかし日本は日本であり、私は私だ。私は私のためにこそ私らしく生きていこうと思った。ドイツの真似をすればよいというものではない。日本の道を歩んでいくしかないのだ。

大計なき国家・日本の末路

大計なき国家・日本の末路

●忍従するところは忍従し、戦勝国の言い分を聞き流すところは聞き流し、最終的には、再軍備を成し遂げ、自主憲法を持ち、米国の服属から脱して独自外交を展開するドイツ! 片や、戦勝国の言い分をそのまま真に受け、従属の優等生となることで国家の芯を抜かれてしまった日本。現在の日本のおかれた状況は、まさに末期的と言ってよい。(P5)
●ドイツ人は、敗戦国としての世の常と割りきって、この裁判を受け入れたものの、これが正当性のない報復裁判であることもしっかりと心に刻み、精神においては、これに屈することは決してなく、ましてや自国の歴史観に影響されることをよしとしなかった。(P98)
●彼らは戦争に敗れたことを恥じていない。むしろ「負けたから、戦争で失ったものを再び、取り返す」という。戦争で負け、茫然自失になって、国家の根幹になるものをすべて放棄してしまった日本とは何と違うことだろう。(P127)
●国家意識なくして何のための日本国であろうか。(P191)