とんま天狗は雲の上

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純粋な自然の贈与

 『「カイエ・ソバージュ」につながる新しい考え方の萌芽』という趣旨のことが「文庫版へのあとがき」に書かれている。「カイエ・ソバージュ」も知らないし、当面読む気もしないが、本書に書かれた「自然の贈与」「ピュシスの力」という考え方は非常に面白いし、資本主義経済が閉塞状態に陥った今こそ、注目に値する。
 あとがきで著者自身も書いていることだが、いくつか収録された論文の中でも、日本の伝統捕鯨に潜む、ピュシス的捕獲と捕獲後の経済活動との対比を取りあげた「すばらしい日本捕鯨」は、非常にわかりやすいし、説得力もある。
 同時に収録された論文の中では、伊勢神宮における神道思想を説明する「日本思想の原郷」は若干毛色が違うものの、その他の論文は、映画作家のゴダールや作曲家バルトークマルクスシューマン、「チベット死者の書」、レヴィ・ストロース、マルセル・モース、ディケンズの「クリスマス・キャロル」などに仮託しつつ、同様の思想、すなわち「自然の贈与」「ピュシスの力」について説明を試みる。ただし、著者ほどの学識や感性を持たない凡人にはかなり難解。
 この論文集の最後には、重農主義につながる「フィジオクラシー」の思想を紹介し、さらにキリスト教の三位一体やプロテスタントの歴史に言及して、「霊」に注目する。

●いまや、大地、貨幣、情報についで霊こそが人間にとっての「第四の自然」となりつつある。だから、いま私たちにもっとも必要なのは、新しい「霊の資本論」の出現ではあるまいか。(P252)

 そこまでいく必要があるのかどうか知らないが、確かにこの世界には、人間では生み出すことのできない新たな創造や価値があり、それは「純粋な自然の贈与」という形でやってくる。それこそが今の閉塞した社会を切り開いてくれる新たな価値・種であるという直感は正しいのではないかという気がする。時代が変わろうとしている予感がそこにはある。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

捕鯨体系の上半身では、自然に働きかける人間の労働が商品としての富を生む、近代の資本主義が作動している。だがその下半身では、戦争機械や儀式の装置をとおして、表象と富を見えないピュシスの領域から、境界面をこえて引き出してくる、より根源的な営みがたえまなくくりかえされているのだ。(P59)
キリスト教のヨーロッパでは、自同律の天井には穴が開いていて、そこからたえず絶対の他者が、滲入と侵入を果たしてきたのである。その侵入によって、世界の現実はつくられる。だから、存在はけっして一つの完結として描かれることはありえず、つねに、侵入を果たす力の源泉である父と、その力が物質でできた現実の世界につくりだした子と、その侵入を促して現実というものをつくりだそうとする精霊の放出力との、三位一体として描かれてきた。(P90)
●等価交換を規則にして構築された世界の底部には、自然のおこなう純粋な贈与が、組み込まれているのだ。貨幣の頭部、増殖の先端部には、ピュシスが発見される。そして、そこで生産がおこる。それは、等価交換の規則を踏みにじって、過剰をつくりだす。そして、その過剰が、贈与として人間の世界にもたらされるとき、社会的富の増殖はおこる。(P102)
●技術(テクネー的なもの)は、ピュシス的な自然の内部から、役に立つエネルギーを、計量可能な形でとりだして、利用するための、世界的な組織を体系的につくりだしていたのである。・・・ピュシス的なるものを、人間の世界の中に立ちあがらせながら、技術のように、それをただちに利用しやすい均質なものにつくりかえてしまうのではなく、ピュシスの多様性と深さをそのまま、人間にあたえかえそうとする試みだ。(P132)