とんま天狗は雲の上

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気象庁の謝罪に思う−本当に謝罪すべきは放送局ではないか

 先日の津波警報について、気象庁が過大な警報だったと謝罪をしたそうだ。私としては、警報は過大なくらいがちょうどよいと思っている。
 今回、気象庁がこうした謝罪を行ったのは、警報予想が的中しなかったことに対して、技術的な反省があったからだろうか。反省の原因に、技術的なミスがあったのであれば謝罪するのも仕方がないが、そうであればミスの内容について明らかにしてほしいと思う。予想技術が未熟で的確な予想ができなかったことについての技術者としての反省であれば、謝罪という形ではなく、技術レポートとして公表すれば足りる。しかし実相は違うところにあったのではないか。
 先のエントリーでも指摘したが、警報発令中、延々とテレビ画面に警報表示が放映され続け、かつ予想よりも小さい津波しかこなかったことに対して苦情が寄せられたからではないか。この場合、「延々と表示を続けたこと」と「予想が当たらなかったこと」は分けて考える必要がある。
 後者に対する対応であれば、上に書いたとおりの対応が適切だろう。つまり、技術上のミス以外は特に謝罪する必要はなかったのではないか。
 前者の「延々と表示を続けたこと」に対する苦情であれば、それに応えるのは放送局であるべきだ。先のエントリーでも指摘したとおり、「延々と表示を続けたこと」に対して、放送局からの謝罪はおろかコメントが一切ないことの方が問題だ。問題の原因者と謝罪者が食い違っているのではないか。
 謝罪と言えばトヨタのリコール問題に係る公聴会での社長の謝罪が話題となっている。公聴会を受けて、アメリカではトヨタに対する訴訟が急増する見込みと言われている。こうした危惧は公聴会前から言われており、だからこそ豊田社長がどう言うか注目されていたわけだが、トヨタもブレーキの障害については問題を認めたが、スピード急上昇については否定をしているようだ。
 これはアメリカでの対応だが、日本では「とにかく謝罪しろ」という圧力があり、謝罪をすれば大目に見るという傾向が見られる。しかし一方で、謝罪すれば非を認めたということでさらに批難を強めるということも間々あり、何でも謝罪すればよい、という状況ではなくなっている。
 今回の気象庁の謝罪について、本当に謝罪する必要があったのか、本当に謝罪する必要があったのは誰なのか、大いに疑問に思っている。
PS.
 当然ながら津波警報発令時に録画した番組は、今見ても相変わらず警報表示が繰り返されうっとうしいこと甚だしい。警報表示は別のレイアーにして、録画視聴時には表示されないようにすることくらい、地デジ技術であれば可能だと思うのだが、何とかならないのだろうか。