とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

格差と希望

 「競争と公平感」が「なんかぬるいなあ」と感じていたら、AMAZONの書評に「『競争と公平感』がこんなに売れているのに、『格差と希望』あまりが売れなかったのはなぜだろう」と書かれていた。そこで読んでみることにした。
 確かに本書の方がまとまりもよく、内容もわかりやすく書かれている。リーマンショック直前の2008年6月発行というのがまずかったのだろう。バブル不況からようやく立ち直り始め、戦後最長の好景気(ただし実感の伴わない)と言われ出した2005年から2008年初めまでの経済状況や論説をベースに書かれているので、リーマンショック以降の世界不況から見るとやや冗漫な感じがするかもしれない。
 しかし世界的には何となく危機を脱し、日本だけが取り残されつつある感のある現時点で読み返してみると、意外に社会の変化を的確に読み取り、現在にも通用する視点が多い。というか、この数年間も相変わらず何も日本の社会や政治は変化をしていないことに気付かされる。
 毎月、経済誌等に掲載された論文を取り上げ批評する日経新聞の「経済論壇から」の2年間分のコラムに、本書執筆時点での追記を加え、さらに週刊東洋経済に掲載したコラム「経済を見る目」からそのテーマに関連する内容のものを追加して3編で1セット。これが24セットと2つの追加コラムで成り立っている。
 「競争と公平感」でも取り上げられていたニューロエコノミクスや教育格差等の話題もあるが(逆にほとんど再掲された内容も多い)、既得権益が社会を不効率に歪めていることを指摘する視点が際立つ。弱者保護を理由にした規制強化が結局は既得権益擁護に過ぎず、最弱者の切り捨てにつながるという指摘である。また、消費者金融の上限金利規制に関して、筆者の意見が変化していくのをそのまま掲載している点も興味深い。一つの施策がどこに軸足を置くかでまったく違う効果と弊害を発生させるという典型である。
 その時に筆者が指摘するのは、人間は必ずしも合理的に行動するとは限らない。感情に委ねると非合理的な行動をしてしまう人間の性向や幼少期の生活環境が非合理的な行動を導くという人間の特性にも配慮した政策の立案と実施が望まれるということだ。
 経済学もこうした視点も踏まえて研究し政策提言するというのであれば、なかなか侮れない。できればもう少し人当たりがやさしいと付き合いやすいと思うのだが、どうして経済学者は総じて居丈高なんでしょうね。大竹先生には本書を読む限り、そんな雰囲気があまり感じられないのが最近人気のある原因でしょうか。

格差と希望―誰が損をしているか?

格差と希望―誰が損をしているか?

●分権化が進めば、高齢者や低所得者の集中に伴う財政悪化を避けるため、自治体間でサービスの引き下げ競争が起こるのは、避けられない。これを防ぐには、あらかじめ使途を特定した補助金を交付した上で分権化を進めることが必要になる。(P59)
団塊の世代以上の年齢層の人々の既得権を崩さないかぎり年金改革は不可能である。これは、政治的には難しい。最も人口の多い層の既得権を崩すのである。そういう改革案を出した政党が選挙で痛い目に遭うことは確実である。既得権を崩すことを政治に望めない若者は、フリーターになって国民年金を未納にすることが公的年金破綻の時期を早めることをよく理解しているのではないか。国民年金未納は既得権世代に対する若者の逆襲なのである。(P82)
金利規制という価格規制には歪みがあるのも事実だ。上限金利が一定のままで、市場金利の水準が上がってくると、リスクは高いが期待収益が高い事業に投資したいという人が資金を借りられなくなってくる。非合理的な人の行動を制約することのメリットと合理的な人の行動を制約することのデメリットを常に考えて、金利規制を行う必要がある。(P142)
●弱者救済のために競争を制限すると、一部の既得権益者を利する一方、「社会的にもっとも弱い層」をかえって苦しめることになってしまいかねない・・・私たちは最低限、既得権者と弱者の「共謀」によって、弱者がますます弱い立場に追い込まれるという悪循環に陥ることだけは避けなければならない。(P164)
●弁護士の宇都宮健児氏も、真の問題は「サラ金からお金を借りざるをないような人が減らない」点にあるという。同氏は上限金利規制の強化で「借りられない人が出てくる」という批判に対して、「そういう人には、市場金利で金を貸すのではなくセーフティネット社会保障の面で対応する必要があるでしょう。『貸さない親切』というものもあるのです」と答えている。消費者金融で対応すべき問題と、社会保障で対応すべき問題を切り分けるべきだというのである。(P182)