とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

岡田監督に期待すること

 普段1日で50件程度のアクセスしかないこのブログだが、4月のセルビア戦の後で岡田監督解任と書いたら500件以上のアクセスがありびっくりした。先日の日韓戦以降も毎日100件以上のアクセスがあり、大した内容でもないのに見に来られた方には大変申し訳ないような気がしている。
 「岡田」「無能」という検索ワードでヒットしてアクセスする方も多いので、私は岡田監督に批判的だと思っている人も多いだろうが、必ずしもそういう訳ではない。実は私は岡田監督と同学年であり、団塊の世代の後の、年齢別人口が最も低くなった年代である。
 現在のように年少の頃からサッカーに触れてきたわけでもなく、小学6年生時にメキシコオリンピックの銅メダルで釜本選手らに憧れてサッカーを始めた年代である。先輩のしごきに耐えることから始まり、常に団塊の世代の後を追ってその後始末をさせられ、団塊の世代がしゃぶりつくした後を他に楽しみも知らずに真似をしては叱られてきた。
 フランスW杯予選の突然の監督就任も後始末である。そして今回も突然のオシムのリタイヤの後、まかせられるのは岡田監督しかいなかったというのが現実ではなかったか。また協会の、先輩の頼みにイヤと言えないのもこの年代ならではのメンタリティだ。
 だから私は岡田監督にすごく同情している。サッカーとともに育ったオシム監督とは較べるべくもない。経験や能力はその数分の一なのは自明のことだ。ただ突然のオシムの退任に、選手たちの動揺を鎮め、新たなチャレンジへと向かわせることのできる精神的なノウハウをもった人物はあの時点では岡田監督しかいなかった。いや他にいたかもしれないが、協会幹部が安心してまかせられる人間は岡田監督しかいなかった。
 だからあの時点で岡田監督が引き継いだのは最善の方策だったと思っている。しかしそのことと南アフリカで勝利を呼び込む能力とは違うものだ。協会はどこかの時点で岡田監督からW杯仕様の人物に代表監督をバトンタッチすべきだったとは思うが、適当な人物がいなかったのも事実だろう。
 だから今我々が岡田監督の率いる日本代表を応援するしかないのも仕方ないのだと思う。しかしだからと言って、勝利を期待するのは間違いだ。日本は岡田監督の下で南アフリカ大会を戦わざるを得ないことを甘受すべきだ。そのことを耐えて受け止める必要がある。
 そして昨日も書いたとおり、その上で南アフリカ大会以降も続く日本サッカーの未来を思い描くことが必要だ。未来は勝利の後にしかないのではない。優勝国以外はすべて敗退するのだ。いかに敗退し、いかに次の未来に向けて歩き出すか。そのことが今回のW杯で問われている。昨日と同じになるが、私はこのW杯をそう捉えているし、岡田監督にはそうした観点で指揮を執ってもらいたいと思っている。たぶん岡田監督自身も思いは同じだと思う。