とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

走ることについて語るときに僕の語ること

●結果的には・・・これは、走るという行為を軸にした「個人史」みたいなものになっているのかもしれない。(P84)

 2005年夏から2006年秋まで。最初は2005年11月に行われるニューヨーク・マラソンに向けて。間に、1996年6月に参加したサロマ湖100kmマラソンの記録をはさんで。そして最後は2006年10月の村上市トライアスロンに参加して。初めて走ったアテネ-マラトン間の記録も。
 マラソン等の参加を目標に日々鍛錬するランニング練習に寄せて人生を振り返る。後書きに、どこまで語るべきか迷った趣旨のことが書かれているが、これまでほとんど語られてこなかった村上氏自身の、これまでの小説家としての人生が綴られている。

●その回の裏、先頭バッターのデイブ・ヒルトンがレフト前にヒットを打った。・・・ヒルトンは素早く一塁ベースをまわり、易々と二塁へと到達した。僕が「そうだ、小説を書いてみよう」思い立ったのはその瞬間のことだ。・・・そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。(P50)

 残念ながら僕のためには、ヤクルトのヒルトンはヒットを打ってくれなかった。ドラゴンズのマーチンも、グランパスストイコビッチも、僕には何も語りかけてくれなかった。
 村上氏もこう書いてしまえばこういうことなのだろう。もちろんその後、小説と向かいあった苦闘が始まり、窮地を抜け出し、今の執筆生活がある。それはかなり粘り強く、そう長距離ランナーのようであったらしい。筆者にとって、走り続けることは小説を書き続けることに等しく、走ることで小説を書き続けてきた、と言う。
 村上春樹ももう60歳を超えた。いい年だ。それだけの年を数えてきたがゆえの人生観が綴られている。しかしいつまでも若い。この本を読んだ後、書店で「考える人」の最新刊が平積みされていた。特集は「村上春樹ロングインタビュー」。思わず購入し、読んでいる。本書で綴られた以上に色々な話題が満載。だが、「走ることについて書くとき、村上春樹は本当に語るべきことを書いている」と思う。なかなかいい本だ。

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

●僕にとって−あるいはほかの誰にとってもおそらくそうなのだろうが−年を取るのはこれが生まれて初めての体験だし、そこで味わっている感情も、やはり初めて味わう感情なのだ。・・・だから僕としては今のところ、細かい判断みたいなことはあとにまわし、そこにあるものをあるがままに受け入れ、それとともにとりあえず生きていくしかないわけだ。(P36)
●僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとってのひとつの重要な試算なのだ。心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなくてはならない当然の代価である。(P38)
●終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そう言う気がした。(P171)
●本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。(P252)