とんま天狗は雲の上

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高齢者不明問題をどう捉えるか

 東京都足立区で111歳の高齢者が、実は既に数10年以上前に自宅で死亡していたことが発覚して以来、日本全国で所在不明の高齢者が続出して大きな問題になっている。
 昨夜の日本テレビ系の「NEWS ZERO」で、ゲストの星野仙一が「行政の怠慢だ!」と叫んでいた。「ついに言っちゃった」と思ったが、村尾キャスターはあっさり受け流し、地域コミュニティや見守り活動の話題に振り向けていった。
 今回の問題に対して、各メディアは意外なほど、行政の対応の拙さを指摘することが少ない。これを評して、この問題が、来年度予算獲得を狙う厚労省から流され誘導されているのではないかと疑うブログも見られた。案外、そんなところかもしれない。
 問題が発覚した翌日の中日新聞には「長寿社会の死角 敬老の気持ちはどこに:中日新聞」という社説が掲げられていたが、この「敬老の気持ち」を云々する主張には違和感を感じた。誰に向けた言葉か知らないが、敬老の気持ちの減退が今回の問題を引き起こしたのではなく、敬老の気持ちを持てないような状況に追い込まれる現実の一場面が明らかにされたのだ。「気持ちの増減を言うのなら証拠をあげろ」と言いたい。ただ社説執筆者の感情を吐露しただけで、こんな社説なら誰でも書ける。
 メディアが報道する「一人暮らしの高齢者の見守り活動を活発化しよう」という主張はとってもまともだし、いいことだが、それでこの問題が解決するとは思えない。問題は孤独死が発見されないことではなく、孤独死の可能性を感知しながら親族が適切な行動を起こさなかったことだ。
 縁者のいない一人暮らしのお年寄りの孤独死については、見守り活動である程度予防できるだろうし、たとえ孤独死したとしても、発見されれば最終的には行政が措置する仕組みになっている。年金の過払いなどの問題に対しては、発覚した時点での対応も可能だろう。預金通帳が暴力団等に渡っていなければ、過払いされた年金が引き出されることもない。
 親族がいる場合は、通常はどこかの時点で処理される。足立区のように死亡しているのに放置してきたことは明らかに犯罪であり、過払いの年金も後処理が可能だろう。
 今回、外出したまま帰ってこない高齢者を「どこかで暮らしていると思った」と答えるケースがよく見られた。通常であれば捜索願を出すべきだが、それがなされなかったのはどういう理由からだろうか。
 これを「敬老の気持ち」というのならそうかもしれないが、親子間であれ、よほど人間関係がこじれる事態は想像できないことではない。出て行ったのを幸い清々したというところだろう。年金や保険料は、これまでの苦労を考え、自分への報酬として着服したというところか。
 年金の不正受給の問題は発覚後の補正対応はできそうだ。捜索願を出さなかったことに対する法的措置はどうなるのだろう。社説では「(行政は)早く対応しろ」と書かれているが、別に早く対応する必要はない。が、年金の過払い分の回収などの法的措置などは厳格に進めてほしい。
 その上で、予防策はどうするか。某市役所の福祉課の方に、「うちの市では、民生委員の方に一人住まいのお年寄りの名簿をお配りして、気を配ってもらうようにしています」という話を聞いたことがある。たぶん現状の福祉制度に係る人員や予算ではそこまでが精一杯なのだろう。同居する高齢者まで見守る余裕はない。が、今回の問題は同居高齢者で発生しているのだ。そこまで民生委員や行政に対応を求めても、費用がかかるばかりで大した効果は見込めない。また次の事件が発覚し、行政責任を追及して一時の鬱憤払いをして終わるのがオチだ。
 国では100歳以上の高齢者全員の居場所確認を市町村に求めるなどしているようだが、100歳未満の高齢者で同様の人はゴマンといそうだ。それよりも、年金の不正給付を続けるとどうなるか、死亡届や捜索願の提出をしないでいるとどういう行政措置があるのかを明確に示すべきだ。いたずらに高齢者の居場所確認に労を費やすよりも、厳格な対応を示すことが、最も費用対効果の高い対策ではないか。そんな気がする。