とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「伝える言葉」プラス

 久しぶりに大江健三郎を読む。朝日新聞に2004年から06年にかけて連載されたエッセイと3つの講演録を束ねたものだ。24編のエッセイは、そのたびにテーマは異なるものの、老境の域に入り、小説家としての仕事と知的障害者の親として生きてきた人生を思い返しつつ、その時々の思いを語る。
 恩師・渡辺一夫に寄せて「不寛容」の精神について語り、ヒロシマに代表される平和への祈りと不断の行動と精神について小説家としての立場から語る。教育基本法の改正に寄せて「教育の力」について語り、大江光の作曲への姿勢の変化を見て「恢復する力」について語る。読み直し続けること、書き直し続けること。著者が人生を通して実践してきた小説家としての生き方を語り、その意味を問う。サイードに寄せて楽観主義について語る。
 こうして書き出すとテーマはかなり広い。が、読んでいると、頑迷なまでに一つの立ち位置に居続け、じっと人生を見つめ、歩んでいくその姿勢に思い至る。
 大江健三郎をして、「自らは安全なところに閉じこもりつつ、平和主義や倫理観を語る卑怯者」といった批判がされることがある。私もそれに賛同したくなる気持ちもあるが、逆に何を言われてもじっと一つのところから動かず、考えた末の言葉を綴り、かつ執拗に書き直す。その姿勢はある意味、非常に力強いし、それでいいんだ、そうあるべきだという安心感をもたらす。
 一つ場所で動かないこと。何度も読み返し、書き直し、言い直すこと。それも大きな闘いの一つの形であり、常人にはできないことだ。
 ノーベル賞受賞直後の小説絶筆宣言から、小説家としての仕事を解禁して既に久しい。同時に、私も大江健三郎の小説を読まなくなって久しい。また読み出そうか。いや、実はたびたびそう思うが、騒がしい時代の変化が、なかなか落ちついて大江健三郎に向き合おうという気持ちにさせない。お盆休みなどその絶好の好機だが、この夏は本書を読んで終わった。次に大江健三郎に会えるのはいつだろうか。

「伝える言葉」プラス (朝日文庫)

「伝える言葉」プラス (朝日文庫)

●人間は、思い込みと自分らの作り出したものの機械となって突進する。その勢いを、人間は誤りやすいと自覚して、ゆるめようと努めるのが寛容。渡辺さんはいつの世にもある不寛容に嘆息しながら、歴史を見れば寛容こそ有効だ、と言い続けました。(P9)
●渡辺さんがその一節を訳出して、人間は「理性」と「言葉」を持っている点で他の生きものと違うが、さらに「手」を持っていることで、「理性」と「言葉」に頼っておちいる観念主義を修正できる、と読み解いていられるところが私をとらえました。(P80)
●さらに、あと15年若かったらやりなおすことができるんだが、という思いと、結局、自分はこういう者だった、という思いがあります。(P94)
●それが私に、人間とはじつに不思議だ、という感嘆と、しかしその不思議さは、人間らしい自然さのもので、しかもそれには合理的な展開がある、という理解をもたらしました。私はずっと小説を書いてきましたが、文学についての根本の信条を問われるとしたら、人間の不思議さと、その展開を言葉によって合理的に納得できるようにすること、そのための手続きを作ることだ、と答えたいと思っています。(P114)
●現行法の「教育基本法」に大切なものとしてありながら、改定案には欠けている文節がさらに一箇所あります。「この理想の(憲法に示した決意の、ということですが)実現は、根本において教育の力にまつべきものである」という、その教育の力です。(P169)