とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「正義」を考える

●何をすることが正しいのか? どのようなルールが道徳的に善いのか? こうした疑問は一般的なものであろう。しかし、これらの疑問が何としても探求せざるをえない深刻な問いになるのは、それらが、人生における切実な困難、そうした困難を招来する社会構造や社会変動と結びついている場合である。すなわち、正義についての考察は、人生や現代社会の困難との対決としての意味も有するとき、真に深い意義をもつ。(P287)

 あとがきの冒頭の文章である。今の時期に「正義」と銘打つ本を出すというのは、マイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』を意識していると言ってよいだろう。私はサンデルのこのベストセラーを読んでいないので正しいことは言えないが、大澤氏もサンデル氏の本を読んで触発されて出版したのだろうと想像される。というのも、本書の中でこの「これから・・・」を引用し、相対的に評価しているから。ただし、サンデル本を批判しようとするものではない。あくまで触発されつつ、コミュニタリアンとしてのサンデルを相対化し、さらに自身の社会学へと展開している。
 本書はNHK出版の会議室で集中的に行った講義をもとに書かれたと言う。そのゆえか、語り口調で説明もていねいであり、引用される事例も角田光代の「八日目の蝉」やエイミー・ベンダーの「癒す人」などの話題の小説を取り上げるなど、非常にわかりやすい。
 第1章では「八日目の蝉」を例に、物語化できない現代の生について語る。第2章は功利主義・修正功利主義からカントに代表されるリベラリズムコミュニタリアン、そしてアリストテレスにまで遡り、正義に関わる思想を解説し確認する。
 第3章は「資本/国家/民主主義」というタイトルが付けられている。初めに、アリストテレス、そしてコミュニタリアンが共通して陥っている盲点としての資本主義を指摘。ついで絶対王権を取り上げ、絶対王権は実は資本主義を内在している、絶対王権があったから資本主義が起動したと指摘する。
 さらに、資本主義と民主主義の類似性を指摘。ところが代表制民主主義は自分で自分を崩壊させてしまう自己否定のメカニズムを内包している。それが下に引用したエリート主義を内包する民主主義という関係に現れている。
 そこまで整理した上で、第1章で取り上げた物語の消滅に戻ってくる。第4章『普遍的「正義」への渇望』である。ここで大澤はイエス・キリストの二つのたとえ話を取り上げる。これがまた面白い。さらに話はグリーンスパンが好んで読んだというアイン・ランド貨幣論になり、資本主義とリベラリズムの話に戻り、マルクスとネグリが引用される。そして労働者階層の二分化、多文化主義原理主義の隆盛。その根底にある「普遍性への渇望」である。
 第5章「癒す人」では、「普遍性」について考える。行きつく思想は、「正義」を求めるのではなく、「破局」を避けること。それを大澤は未来から見る逆転した歴史観から導き出す。
 この物語性の欠如した現代。言いかえれば、先の見えない現代にあって、「正義を求めない」という態度はいかにも暫定的・留保的ではあるが、とりあえずの生きづらさを回避する態度かもしれない。しかし大澤自身、まだこれについて完璧な答えを持っていない、暫定的な答えであると言っている。次の著作を期待したい。

「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)

「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)

●ある意味で、真にやるべきことは、官僚がほとんどすべて済ませています。官僚が用意した文書の最後に、王が署名する。このことで、文書に記された知が「意志」へと変換されるのです。・・・つまり、ここで問題になっているのは機能としての君主です。・・・こう考えると、実際に汪がいるかいないかということとは別に、近代的な政治システムは、知と決定を媒介する最終的審級をどこかに装備しておかなければいけない、ということなのです。(P174)
●人々はローカルな判断しかできないし、情報が正しいか間違っているかを判断できなくとも、「わかっている人」というポジションを想定できるときに、代表制民主主義というのはうまく機能する。だから、民主主義の危機はどこに生じるかというと、実はエリートのところに来る。・・・民主主義が危機的状態になるのは、エリートを信頼できなくなったときです。つまり、民主主義とエリート主義は、対立的なものと見なされがちですが、むしろ持ちつ持たれつの相互依存の関係にある。民主主義が機能するためにはエリート主義が機能していなければいけない、そういう構造になっているのです。(P183)
●両陣営[二極化された労働者階級。「シンボリック・アナリスト」と周辺労働者]のイデオロギーは、どちらも空虚になった普遍性を何とか埋めようとしている(そして失敗している)のです。両者は、異なる方向から、同じ空虚を目指している。一方は断念という身ぶり(多文化主義)で、他方は、より強い拒否という姿勢(原理主義ナショナリズム)で、逆に、普遍性を指向しているのです。(P241)
●それぞれの文化は自らの中に、その文化の中に回収できない残余の部分を持っている。このことは、各文化は、ある種の不寛容を抱いているということです。他人の文化に対して不寛容なのではなくて、自らに対する不寛容です。つまり、自らの中に完全に消化しきれない部分があるわけです。この消化しきれない部分が、言ってみれば普遍的な連帯の根拠になる。・・・だから僕としては、こう言いたい。それぞれの文化が内に保持している「自己に対する不寛容」によって連帯する、と。あるいは、自らの中に収容しきれないような―あえて言うと「自己に対する否定性」―、そういうものによって繋がる、と。(P259)