とんま天狗は雲の上

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創造的福祉社会

 「グローバル定常型社会」「コミュニティを問いなおす」で、現代が第3期の定常型社会の端緒に立っていること、それは「環境と福祉の統合」という方向であり、その場合にローカル・コミュニティの場からの対応が必要であることを示した。本書は両書をさらに融合・進展させ、特に人類の精神的発展・変化の点でその思考を深めている。
 全体は3章構成。第1章「創造的定常経済システムの構想」は「資本主義・社会主義エコロジーの交差」という副題が付けられ、【時間軸/歴史軸】から「私たちはどのような時代を生きているか」を描きだす。実はここで来るべき創造的定常型社会の全体的なグランドスケッチが描かれている。
 狩猟・採集社会の行き詰まり期に訪れた「心のビッグバン」とその後の第1期の定常化の時代、農耕社会の行き詰まり期に訪れた「枢軸時代/精神革命」とその後の第2期の定常化の時代、そして現在は産業化(工業化)社会の行き詰まり期における第3期の定常化の時代の鍔口に立っている。「第3の定常期」を筆者は「創造的定常経済」または「創造的福祉社会」と呼ぶ。
 この場合の「創造的」とは、従来の経済競争力や技術革新のような狭いベクトルの中に絡み取られたものではなく、精神的・文化的な豊かさに向かう「創造性」であるとする。「多様性」と言い換えてもいいかもしれない。そして多様な創造性を生むのは「空間」であり「地理」である。こうして第2章「グローバル化の先のローカル化」【空間軸】の議論に移っていく。副題は「地域からの“離陸”と“着陸”」だ。
 第1章の初めに「社会的セーフティネットの構造」について考察し、事後的な生活保護(公的扶助)のセーフティネットから、社会保険セーフティネット、さらに雇用というセーフティネットへとより事前的なものへと段階的に積み上げられてきたと説明する。これは資本主義の進化と限界の露呈に伴い必要に応じて展開してきたものだが、この先にはさらに「コミュニティ」そのものにさかのぼった対応と政策統合が求められと書いている。それを果たすのがローカルな地方政府である。そして、これからの時代はここを起点として、生活保護セーフティネットまでが地方自治体の役割になると説く。
 以上の社会システム論と打って変わって第3章「進化と福祉社会」では、なぜ「創造的福祉社会」なのか。その原点を人間の人間性・精神性にさかのぼってその原理を突き止めにいく。【原理軸】「私たちは人間と社会をどのように理解したらよいか」である。
 正直、第3章の議論は難しい。最初は人類の進化や社会の誕生といった議論が重ねられ、「心のビッグバン」の意味を探求する。一言で言えば「文化・社会性への関心の高まり」とでも言えばいいだろうか。ついで、「枢軸時代・精神革命」の意味である。これは、異質な社会との相克の末に、人間存在そのものへ意識が向けられた時代とまとめられる。
 しかしそれは同時にいくつもの文化・文明がお互い干渉せず並立できた時代でもある。だが時代はグローバル化を迎え、地球の有限性が見えてきた。今後求められるのは、地球全体をメタレベルから眺める視点である。その時に見えてくる「有限性」と「多様性」。それは第1期・第2期でも追求されてきたテーマでもある。だが今回はそれが地球レベルで起こることにより、ローカルとグローバルがつながってくる。「個人―コミュニティ―自然」の一体化と同時に、超越性(公共性)へのベクトルと内在性へのベクトルの循環的融合が図られる。
 言いたいことはわかるような気がする。とても単純なようで、とても難しい。少なくとも現代の経済至上主義・技術発展一辺倒の進化主義がベースとなった社会運営や政治議論では解けない社会に向かいつつある。そのためのドラスティックな変化もあるかもしれないが、同時にマイルドに我々の心・気分が既に変化を始めている。たぶん「創造的福祉社会」の方向へ。

創造的福祉社会: 「成長」後の社会構想と人間・地域・価値 (ちくま新書)

創造的福祉社会: 「成長」後の社会構想と人間・地域・価値 (ちくま新書)

●資本主義における政府部門の介入が、事後的な貧困救済策(生活保護)→社会保険ケインズ的雇用創出政策という具合に進化してきたという点を述べたが、実はこの一連のプロセスとは、国家あるいは「中央政府」の活動領域が、その財政規模を含めて順次拡大してきた歴史でもあった。/それが、同図のピラミッドの頂点のさらにその上において“反転”し、コミュニティという存在が重要なものとして浮上する。そして、これからの時代はここを起点にして、ローカルな地方政府が主体となり、いわばピラミッドを上から下にたどる形でその活動領域が広がり、中央政府ないし国家から役割が順次シフトしていくことになる。(P131)
●都市というものはもともと、共同体(コミュニティ)と共同体との間の「市場」をベースに生成したものと言えるが、市場とはまさに(農村)共同体にとっての“外部に開かれた「窓」”ともいうべき存在であった。/したがって都市とは、農耕を開始し、(本来の)狩猟採集社会から離れてしまった人間が、その“必然的な補完物”として生み出した余剰あるいは分泌物のようなものという理解が可能ではないだろうか。その意味では、・・・都市と農村という二者は、分けて考えられるものではなく、相互に不可分で補完的な存在であり、私たち人間は(自身の中に)その両方を必要としている。(P197)
●人間の歴史における「心のビッグバン」そして「枢軸時代/精神革命」という、それぞれ狩猟採集社会と農耕社会における生産―技術パラダイムが飽和ないし資源・環境的な臨界点に直面した時代に生成した根本的な変化。これに匹敵するような分岐点―第3の定常化の時代―を迎えつつあるのが現在の私たちである。(P219)
●経済成長あるいは物質的生産の拡大の時代においては、“市場化・産業化・金融化”という大きなベクトルが支配的となり、そうした生産拡大に寄与する行為や人材が「価値」あるものとされ、創造性もそうした枠組みの中で定義された。/しかし現在という時代は、環境内制約あるいは・・・“過剰”とそれによる貧困という点からも、またポジティブな内的価値や生きる根拠への人々の渇望という点からも、生産への寄与や拡大・成長といったこととは異なる次元での「(存在そのものの)価値」が求められる。定常期においてこそ人々の質的・文化的な「創造性」が多様な形で展開する(P265)