とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

浮世の画家

 終戦後の混乱が収まり、アメリカ由来の民主主義をみんなが受け入れ、経済復興ともども自信と希望を取り戻しつつある時代。戦争時に愛国的な絵画を描いて尊敬を集めた小野は、戦争終結とともに周囲からの冷たい目もあって絵筆を置いた。
 次女の紀子の縁談が小野の戦時中の活動が原因となって破談となり、2度目の縁談話が持ち上がる。お見合いの場で突如、自らの過去を反省してみせる小野。信念を持って生きてきたはずの半生と新しい価値観の間で揺れ動く。
 カズオ・イシグロが日本語で書いた小説かと思ったが、そうではなく翻訳本である。最初、イギリスで出版され、大好評を博し、ブッカー賞候補になったと言う。どうして日本の終戦後という特殊な時代背景で書かれた小説がイギリスでこれほどまでに支持されたのかと疑問に思ったが、読み終えると確かにこれは、世界的に共通する状況を描いていることがわかる。時代の変化、価値観の変化と人生をいかに協調させていくか、そして自尊心といかにバランスを取って生きていくかは、世界共通の老年時代の課題だと言える。
 「浮世の画家」というタイトルの原題はそのまま「An Artist of The Floating World」と言う。「The Floating World」。まさに流れゆく時代の中でいかに生きていくか。もちろん、「浮世の画家」とは小説内で、遊女などの淡い美を描く古い時代の画家を指している。小野自身がかつて浮世の画家であった。それが戦前の新しい時代の中で、師匠を捨てて、時代の価値観を先導する画家になっていく。そして戦争が終わり、また新しい価値観の時代がやってきた。
 長すぎる人生はいかにも苛酷である。われわれはこうして生きていくしかないのだ。次のイシグロ作品が楽しみである。

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

●杉村家の姉娘は「人徳をせりに掛ける」と言ったが、それはなかなか名案であるように思えた。物事の決着をつけるのに、なぜもっとそういう手段を活用しないのか。人の財布の重さを比べるよりも、道徳的な行動や社会的な功績を比べるほうが、はるかにすばらしいではないか。(P14)
●過去の責任をとることは必ずしも容易なことではないが、人生行路のあちこちで犯した自分の過ちを堂々と直視すれば、確実に満足感が得られ、自尊心が高まるはずだ。とにかく、強固な信念のゆえに犯してしまった過ちなら、そう深く恥じ入るのも及ぶまい。むしろ、そういう過ちを自分では認められない、あるいは認めたくないほうが、よほどはずかしいことに違いない。(P187)
●こういう小さな特徴を受け継ぐのは、もちろん子供に限ったことではない。青年もまた、尊敬してやまない教師や師匠からなにかを伝えられる。そして、教えられたことの大部分を再評価せざるを得なくなった―場合によっては否定せざるを得なくなった―ずっとあとでさえ、旧師のいくつかの特徴は、かつての影響の影のような形で残り、生涯その人に焼きついてしまうものだ。(P201)
●ある世界の妥当性そのものに疑問を持っているあいだは、その世界の美しさを観賞することなど、とてもできない(P222)
●きみやおれみたいなのが昔やったことを問題にする人間なんてどこにもいない。みんなおれたちを見て、杖にすがったふたりの年寄りとしか思わんさ」彼はわたしに笑みを見せて、鯉に餌を与えつづけた。「気にしているのはおれたちだけだ。過去の人生を振り返り、そこに傷があるのを見て、いまだにくよくよ気に病んでいるのは、世の中できみやおれみたいな人間だけだよ」(P300)