とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

政治の責任 科学の責任

 大塚耕平議員は地元愛知県選出の参議院議員で、もう数年も前にたまたまあるイベントに突然来場され名刺交換をしたことがある。こちらはただの下っ端担当者だったが、議員というのは機があれば誰にでも握手を求め名刺交換をするんだなあと思った。それ以来、メールマガジン「大塚耕平のホームページ:OKマガジン」を送ってくる。別に支持者というわけでもないが、届いて困ることもないので、ありがたく受信し読ませてもらっている。日本銀行出身の議員らしく、国際経済情勢についての分析はなかなか興味深い。
 今週送られてきたメールマガジンでは、科学の「信」をテーマにしていた。10日付けの日経新聞のコラム「核心」を題材にしたもので、「科学者の信用、どう取り戻す」という見出しに強く反応し、編集委員の「滝氏の主張に全面的に賛意を示したいと思います。もちろん、政治の責任が最も重いことは言うまでもありません。しかし、今回の事態に対しては、科学の責任も同程度に重いと言わざるを得ません。」と結んでいる。
 本当だろうか。私はこの文章に強い違和感を抱いた。
 「科学の責任」とは何だろうか。例えばX線を発見してしまったキュリー夫人はどう責任を取るべきだろうか。iPS細胞を作成した山下教授はいけないことをしてしまったのだろうか。科学と倫理の問題は古くからの大きな課題なのかもしれないが、発見・研究することとそれを実用化することとの間には大きな差があるような気がする。
 コラムのテーマである「放射線の健康影響」について、科学者間でも意見の相違があることに対して、滝編集委員は「早く統一見解を示すことが科学者の責務だ」と主張しており、それに対して大塚議員も賛意を示しているのだが、統一見解を示すのは本当に科学者の責務だろうか。
 少なくとも放射線の健康影響については、誰でも自由に研究し、自由に研究成果を公表する権利を有している。そうでなければ統一的基準を示すための基礎的な情報が得られない。国際放射線防護委員会(ICRP)は国際社会の要請に応え、多くの研究成果を踏まえ、これまでも統一的基準を示してきたのであって、福島原発の事故があったからと言って、事故に伴う新たな科学的知見が得られない限り、基準を変更する必要性はない。これは事故直後から中部大の武田邦彦教授が主張していることであり、その部分について何ら間違いはないと考える。
 今議論になっているのは、ICRPの基準の根拠の一つになっているLNT仮説に対する疑義を示す研究が出されていることから、ICRP基準を見直すべきではないか、ということである。しかしその背景には、東電や政府の原発事故対策の負荷を少しでも軽減させたいという意向があるのではないかという疑念がある。こうした状況下にあって、日経の滝氏や大塚議員は科学者サイドに基準の見直しを要求しているものであり、一方的に要求し、それに即時に応えない科学者サイドを無責任だと攻撃しているように見える。
 同様の議論は、同じく武田教授を攻撃する経済学者・池田信夫氏のブログで見られる。これに対して以下のサイトがなぜ科学者と経済学者の議論が噛み合わないかについて解説を試みている。
「『最先端似非(?)科学のリバネスって、隠蔽も素早いんだな!!』社長のブログ:経済学者と科学者の非科学領域での戦い」
 ブログ氏の意見に大きく賛同する。結局、政治家は政治が負担すべき責任を少しでも軽減したいがため、科学の責任を持ち出しているだけのことで、気持ちはわかるが逃避行動に過ぎないのではないかと思う。