とんま天狗は雲の上

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レヴィナスと愛の現象学

 冒頭に、この本の「宛先」は。エマニュエル・レヴィナスを「一応読んだけれど、なんだか難しくてよく分からなかった」か、「まだ読んでないけれど、いずれ読むことになるのでは、と思っている」方である、と書かれている。私は前者ではないし、後者も約束できない。本書を読む限り、あまりに難解すぎて読もうかという気力さえ萎える。だが、本書についてはある程度楽しく読むことができた。いつもの内田節で綴られて、難解だが親しみやすい。だがどれだけ理解できたかとなると、かなり疑わしい。
 それでも第1章「他者と主体」、第2章「非―観想的現象学」は何とか分かった気になった。第1章は、自身はレヴィナスの弟子である、とする弟子論から、他者と主体の関係に迫る。「他者」と「私」は同時的に生起するのであると。
 第2章はレヴィナスフッサール批判を通じて、レヴィナス現象学に迫っていく。観想的、すなわち「見る」ことに留まらない「非―観想的現象学」。「りんごの木」や「さいころ」ではなく、「愛される人」と「書物」を志向する。レヴィナス現象学は対話で成り立つ。ユダヤ教のラビ達の議論のように。
 そして第3章「愛の現象学」は・・・ボーヴォワールらのフェミニストによるレヴィナス批判はよくわかる。だがそれはレヴィナスの表層しか読んでいない批判だと言う。レヴィナスが「家」や「女」、「官能」などを用いて説明をするのは(まず根底に批判的対話というレヴィナスの手法があるのだが)、「家」や「女」そのものではなく、「家のようなもの」「女のようなもの」であり、それは「主体の主体性」を引き出す自己そのものである。

●主体はその自己同一性をおのれの機能を自ら行使することによってではなく、愛されているという受動性から引き出している。/このとき、主体の主体性を構成しているのは、能動性ではなく受動性であり、おのれの確かさではなく、不確かさである。そして、この官能における決定的な主体の変容をレヴィナスは、「女性化」と呼ぶのである。(P340)

 ここから先はさらに難解。内田氏の軽妙さも影をひそめ、ただ原文を追いかけ紹介するだけになる。それでも「女は何を欲望するか?」を読んでいたので多少の既視感はあった。最後はほとんど理解できていないが、きっとどこかでまたわかりやすく解説してくれているんじゃないかと期待しよう。
 ということで、レヴィナス読んでみてもいいかなという微かな誘惑を感じないでもない。いやその前に「他者と死者―ラカンによるレヴィナス」を読もう。それもしばらく頭を休めてから。

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

●「主体」が決断を下すのではない。決断された後になって、そのような行為を起動させた「始点」が事後的に確定され、それを人は「主体」と名づけるのである。・・・「私」が「他者に暴露される」というより、「他者に暴露され得るもの」、それこそが「私」なのである。「私」と「他者」は同時的に生起するのであって、「私」に先んじて「他者」がいるのでも、「他者」に先んじて「私」がいるわけでもない。(P82)
●アブラハムの主体性は、理解を絶した主の言葉をただ一人で受け止め、それをただ一人の責任において解釈し、生きたという「代替不能の有責性の引き受け」によって基礎づけられる。この主体性は、神が彼の行動を根拠づけてくれたから獲得されたのではなく、何ものも彼の行動を根拠づけてくれないという絶対的な無根拠に耐えたことによって、・・・神との近傍のうちで絶望的な孤独を味わったことによって獲得されたのである。(P98)
●自分が犯していない罪過についてさえ有責性を感じることが「できる」というこの逆説的な権能のうちに主体性は棲まっている。これが主体性であり「善性」である。/自分のなしたこと以上の責任を負うという、この有責性の過剰が生起する場所が宇宙のどこかにありうるということ、それがおそらく畢竟するところ、「私」の定義なのである。(P318)
●おのれ自身によっておのれを基礎づけることができないと告白すること、おのれの起源がおのれのうちにはないことを受け容れること。・・・それは「帰り道のない」自己放棄なのである。/この自己放棄はそれにもかかわらず、・・・「自己同一者の未来とは異なる私の未来」がそこには望見されている。「私ではない私」の出現が確信されている。レヴィナスはそれを「息子」と名づける。・・・それは男性的・英雄的主体がエロス的経験を通じて、おのれの根源的な受動性、被造性の覚知に至ったときにはじめて結実する「私の未来」のことなのである。(P342)