とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

株式会社という病

 2007年に発行された単行本の文庫化。2007年にはリーマンショックはまだ起きておらず、不二家の期限切れ原材料使用問題が発覚し、ホリエモンライブドア事件村上ファンド事件の地裁判決があった年だと言う。今にして思えば早くも懐かしい。小泉内閣から安倍内閣に代わり、市場原理主義グローバリズムが絶頂期をむかえていた時期でもある。
 この時期にあって、株式会社というシステムには根源的に抱えている「病」があると喝破し、それを自覚しつつ付き合っていかなければいけないと説く。平川克美氏はまさに現役の経営者である。だが、そこらの御曹司社長や高学歴社長とは違い、町工場の経営者の息子として生まれ、学生時代から起業し、実業界の真っ只中で生きてきた。その彼が「株式会社は病を抱えている」と言う。その病は、経営者や社員、株主の思いを振り切って、自動機械のようにあくなき成長と利潤を求める。
 だが、株式会社は多くの人を魅了し、幻想となり、欲望と病を循環する。これを「経済的人間」「信憑論」「幻想論」「因果論」の4章に分けて論を進めていく。これに、梅田望夫の「ウェブ進化論」を題材にした「技術論」、藤原正彦の「国家の品格」を題材にした「倫理論」が加わる。
 全体として何かを主張する本ではない。不二家事件やホリエモンを何度も題材としつつ、エッセイのように株式会社というシステムと現代社会・経済について書き連ねていく。私自身が体調が悪いこともあり、内容がしっかりと頭に入り切らない感があったが、訴えていることには大いに賛同するし、理解する。株式会社の病はすっかり日本社会にも感染し蔓延してしまったようだ。特効薬があるわけではない。本当の知性を働かせと言っているような気がする。

株式会社という病 (文春文庫)

株式会社という病 (文春文庫)

●会社という法人格をもった存在は、ひとつの考え方をもっており、それは私たち個人個人の考えを集合したものでもないし、代表しているわけでもない。「会社の命令」という言葉があるが、それを発しているのは社長でも、人事部でもなく、まぎれもない「会社」という仮構された人格なのである。(P38)
●会社が、会社であるためには皆がそれを会社として認めているからであり、まさに社会の中で会社として機能しているからであって、もし誰も会社というものを信じていなければ、毎日律儀に会社に通って、忠誠をつくすなどということもなくなる。(P113)
●「私」の欲望は、「私」の内奥から湧き上がってくる利便性や効率性への欲求だけによって駆動されているわけではなく、「他者」がすでにそれを所有しているということによって激しく駆り立てられるのである。・・・欲望はつねに他者を必要としている。(P134)
●経営者や従業員による、会社に対する無償の贈与がなければ、会社もまた育つことはない。そこで育まれてくるものに対して名前をつけるのは難しいが、あえて言えばそれは共同体のエートスといったものであるといえるのではないだろうか。(P155)
●現実には極論と極論の中間に漂うような無数のバリエーションが存在している。それを、中道といい日和見と言って唾棄してきたのは、私たち自身である。無論間違えていたのは私たちの方だ。・・・人間的な幸福という点に関して言うならば、それは、極論の中間にある無数のバリエーションが作っている微細な差異の中に実感されるものである。(P256)