とんま天狗は雲の上

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他者と死者

 「ラカンによるレヴィナス」と副題が付く。ラカンレヴィナスという同時代を生きた超難解なフランス人思想家をあえて並べ、ラカンを読みつつ、レヴィナスを読み込んでいく。目的はレヴィナスである。
 前著「レヴィナスと愛の現象学」でも展開された「弟子論」から始まり、「他我」と「他者」について考察し、死者としての他者(と自我)にたどり着く。前半はラカンがかなりレヴィナス理解に対して応援していたが、途中からレヴィナス読解になり、またもかなり難解になる。もっとも私が寝不足で睡魔という別の敵とも闘いつつだったこともあるが。
 解説を述べる資格もないし、自分の理解を開陳したくとも、あまりに断片的で開陳できるほど理解できていない。だが、「神」の存在、「神」とは何かがレヴィナスの「自我論」にとって、決定的に重要な意味を持っていることはわかる。宗教的な意味の「神」ではなく、哲学的な意味での「神」の審級が、自我や存在において重要な鍵となっている。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

●「師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与える」。問いと答え、師と弟子、語り手と聴き手、他者と主体は同時的に生起するのである。(P119)
●「弔う」とは、言い換えれば「死者をして死なしめる」ことである。「死者をして死なしめる」ために生者がなさねばならぬことは、死者たちを決して「存在論の語法」において語らないという法外な禁欲である。・・・存在論の世界においては、「死者たち」は死ぬことが許されない。「死者たち」は生者たちによって「使役」される。(P185)
●「あなたの隣人を愛しなさい」と神は命じる。それは隣人のすべての受難について、私は隣人を知るより前に、「存在しなかった過去」において有責であることを受け容れるということである。それはその神の命令の当否を検証するに先んじて、その命令を信認するということである。(P235)
●最も峻厳に私たちの欲望を禁圧するものは何か。それは「神」である。ということは「神」とは「私たちがその死を誰より願うもの」の代理表象であるということになる。だから、「神」と「私たちがその死を誰より願うもの」は同じ名で呼ばれる。「父」である。(P261)