とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

夜想曲集

 カズオ・イシグロの短編集である。副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」と付けられている。栄光の過去を持つ老歌手。古いブロードウェイソングを愛した友人たち。成功を夢見る若いシンガーソングライター。売れないサックス奏者。駆け出しのチェリスト。2編目は直接音楽家ではないが、いずれも音楽をめぐる小編である。
 中でも私が最も気に入ったのは、3編目の「モールバンヒルズ」若いアーティストが姉の経営するカフェで出会ったスイス人の音楽家夫妻との交流を描く。若者の夢。音楽家夫妻の人生への諦観と動機付け。人生はそうそう簡単に成功するものではない。特に音楽家という職業ではそれが目に見える形で現れる。いや、何を持って成功と考えるかは人それぞれ。それは人生をどう捉えるかと同義だ。
 4編目の「夜想曲」はまさにドタバタコメディ。整形手術で顔を包帯でぐるぐる巻きにされた二人の患者がホテル内を大冒険。また2編目の「降っても晴れても」も、夫婦和解のために借り出された主人公が友人に言われるまま、破天荒な行動を繰り広げる。最後はポチッとロマンティック。
 ロマンティックといえば1編目の愛し合いつつ離婚する中年夫婦のロマンスを描いた「老歌手」。ただ、全編この調子かと思ったら、コメディあり、青春モノありで、カズオ・イシグロの幅の広さに感服する。しかしやはりカズオ・イシグロは長編作品のほうが面白い。さて次は何を読もうか。

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

●「一つ秘密を教えよう」とガードナーが言った。「ちょっとした演奏のこつだ。プロからプロへの秘密伝授というところだが、実際は単純なことだ。それはな、聴衆のことを何か知っておけ、ということだ。何でもいい。今日の客は昨夜の客とどう違うのか―・・・ミルウォーキーはいい豚肉を産することで名高い。うん、これでいい。舞台に出たら、それを使え。(P31)
●「ティーロはここにいたら、きっと悲観的になるなと言うでしょう」とゾーニャは言った。「・・・君は成功する……。ティーロならそう言う。それがあの人の生き方だから」「あなたなら何と?」「同じことを言いたいわね。あなたは若いし、才能があるもの。でも、強くは言えない。人生は落胆の連続だというのが現実ですもの。加えて、そういう夢がある人は……」(P173)
●あらためて思えば、あれは旧師のための怒りではなかったのだとわかる。相手から注目され、敬意をもって迎えられることを期待できた。つまり、自分は旧師の名前を権威として世界に振りかざし、それに依存してきたのではなかったのか。あのときあれほど動揺したのは、ひょっとしたらこの権威には思っていたほどの威力がないという可能性に気づいたからではなかったか……?(P275)