とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

呪いの時代

 「新潮45」に2008年11月から2011年6月まで不定期に連載してきたエッセイを加筆修正したもの。それも談話を編集者が文章にまとめて、それを筆者が加筆修正したと書かれている。そこまで正直に舞台裏を披露した書物も少ないのではないか。これまでのブログ・コンピ本よりも少し長めで、時々横道に逸れる部分もあるが、内容的にはよくまとまっている。テーマは「呪詛」と「贈与」。と書かれているが、東日本大震災後に執筆された「荒ぶる神を神を鎮める」なども収録されている。
 また「『日本辺境論』を越えて」も興味深い。「『後手』に回る日本」や「英語が要らない奇跡の国」は日本論だし、「『婚活』と他者との共生」や「『草食系男子』とは何だったのか」は、若者向けに人生論を語っている。
 普段、ブログで書いている内容がほとんどであるが、改めて読むと、納得し癒される。
 タイトルが悪いんじゃないか。「呪いの時代」ではなく「祝福の時代」としてもらえば、自費で買ったかもしれない。呪いが怖かったので図書館から拝借し、また返納した。

呪いの時代

呪いの時代

●「他責的な説明」の分泌する毒の恐ろしさを人々はあまりに軽んじています。「悪いやつ」がどこかにいて、すべてをマニピュレイトしているというチープな物語を受け容れてしまうと、僕たちは「この社会を住み易くするために、ささやかだが具体的な努力をする」という意欲を致命的に殺がれてしまう。「努力しても報われない」という言葉をいったん口にすると、その言葉は自分自身に対する呪いとして活動し始める。(P33)
●僕自身のうちにはさまざまな人間たちがいます。幼児的な僕もいるし、老成した僕もいるし、野生的な僕もいるし、思慮深い僕もいる。・・・彼らとの対話と協働とを経由して、彼らとの共生を果たし得たならば、そのノウハウを足がかりに、「外部にある他者たち」との共生の途もまた見出すことができる。・・・自分の中に現に存在する卑猥さや臆病さや狭量を「こんなのは私ではない」と言って切り捨てたり、抑圧したりする人が、他者の卑猥さや臆病さや狭量さに対して寛容でありうるはずがありません。自分の欠点に非寛容な人間が他者の欠点に寛容でありうるはずがありません。(P136)
●「家族内犯罪」は、成員条件を満たさないものは「排除してよい」というエゴイズムが家庭の中にまで入り込んできたことの結果ではないのですか。家庭が共同体機能を失ったことの症状ではないのですか。・・・だって、家族というのはまさにメンバー中もっとも社会的能力の低いものが自尊感情を保ち、幸福で文化的な生活を享受できるようにするための支援システムなんですから。(P164)
●というわけで、どうです「うめきた大仏」建立案。/政治家も官僚もビジネスマンも、真剣に考えてくれないだろうか。ほんとうにこれで大阪は起死回生的に蘇生する。/むろん神威によって蘇生するのではない(繰り返し言うように、神の威徳というのは、そのようなものが存在し、活発に機能していると信じる人間が作り出すのである)。大阪を賦活させるのは、誰でもない大阪に住む生身の人々である。でも、人間というのは霊的に賦活された気になると、毎日機嫌よく働くのである。(P231)
●ごく個人的あるいは地域限定的な要素によって市場における消費者の行動は変化する。そういうものだと思う。そして、定型的な消費者行動パターンから逸脱する固体が多ければ多いほど、その国の市場は「成熟している」とみなすべきだと私は思っている。(P257)