とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

平成不況の本質

 筆者の大瀧氏は私と同い年である。がその割には古臭い感覚の記述が多い。例えば「IT機器は、個人と社会の間に分厚い隔壁を作り、自分一人で社会生活が営めているかのごとくの幻想を当該個人に与える」(P149)など。たぶんこれからはIT機器を通じたコミュニティが生まれ、ITが新たな「つながり」を生むのではないかと私は感じている。
 それは一例として、基本的に保守的で過去を礼賛する主張が目立つ。確かに1970・80年代はよかった。熟練の技が評価され、みんなが将来に希望を持つことができた。それを壊したのは、金融機関の役員・社員や政治家など、一部の高額所得層かもしれない。しかしそれだけではないのはみんな感じている。
 それを一部の強欲な人々のせいにしているだけでいいのだろうか。彼らさえいなければ、70・80年代はそのまま続いていたのだろうか。何か違うような気がする。
 雇用を中心にマクロ経済学を駆使して、デフレの要因、賃金が上がらない理由、株式主権論や構造改革批判などを展開する。銀行は本来の間接金融に戻れというナローバンキング論を主張する。数式を使って説明する理論には、門外漢には理解できない部分も多い。
 社会的共通資本としての教育論や技術の継承と雇用的評価など、心情的には賛同したいのだが、こうした倫理で現代の経済状況を諫めても、何か変わるとは思えない。いや、正しいことを言っていると思うし、そう信じたいが、それをせせら笑う奴らがいる。彼らの前にこうした倫理論はどれだけ力になり得るのか。
 OWS(オキュパイ・ウォールストリート)運動の思想的支柱になりそうな気もするが、日本におけるオキュパイ・トウキョウは世界に比べれば大きな運動にはならなかった。大瀧理論は庶民にとってどれだけ力になり得るか。私も経済はよりよい社会形成のための道具であると信じたい。だが、強欲な奴らの道具と化して、それを奪還できない。もっと別の理論と道具が必要な気がする。

平成不況の本質――雇用と金融から考える (岩波新書)

平成不況の本質――雇用と金融から考える (岩波新書)

●三度にわたる金融ショックは、容易に消えない「歴史」として日本経済に爪あとを残していると考えられるのである。そして最も好ましくないことには、一部の不幸な人たちに失業という形で集中的に負担を負わせることによって吸収されており、回を重ねるごとに問題を深刻化させている。(P28)
●株価・地価の低迷に苦しむ金融機関にとって、インフレは干天の慈雨なのである。・・・われわれ一般市民から徴収されるインフレ税の行き先は、金融機関の役員・社員をはじめとした高額所得層の懐なのである。(P42)
●熟練を組織によって正しく評価するなら、それを無視した市場取引の労使関係より、新たな利潤機会が生まれている・・・。熟練という目には見えないが組織固有の資産が存在する場合、市場に代えて組織を用いることにより、生産量・雇用量は増加するのである。(P111)
●銀行は、預金という安全資産を貸し出すという危険資産に変換しているのである。・・・では、どうして銀行は他になしえないこうした行動をとることができるのだろうか。その拠り所は「審査能力」に求められる。つまり企業への融資に当たっての審査で、企業の経営陣からの情報や財務諸表の分析に基づいて、他には知りえない企業の将来性(経営陣の人間性も含む)を読み取ることができるからである。(P121)