とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

負い目を感じる性格がストレスを呼ぶ

 京都府亀岡市の無免許少年による交通事故で二人が死亡した事件。死亡した妊婦の父親がサングラスに日焼けした顔でいかにも強面。亀岡警察署の署員が加害者の家族に被害者情報を流したことを謝罪に来た警察署長が土下座をする前で、イスにふんぞり返る映像が昨日の報道ステーションで流れ、思わずチャンネルを替えてしまった。
 加害者に100%非がある事件だが、加害者の家族が被害者の家族に謝罪をしたいという気持ちは理解できるし、執拗な要請に警察官が応じてしまったというのも理解できない話ではない。もちろん法的に問題があるということなので庇うつもりはないが、土下座して謝罪する署長が自ら情報漏洩したわけでもなく、父親のその態度には嫌気が走った。
 そのことを妻に言ったら、それで被害者の父親を非難するのはおかしい、と厳しく反論されてしまった。その後、しばし夫婦喧嘩が勃発したが、しばらくして冷静に話し合った。
 被害者の親族になるよりも、加害者の親族になる方が苦しい。全くこちらに非がないのに一方的に被害に遭うことは日常しばしばある。避けようのない被害というものはあり、日頃から注意を促していなかったという程度の有責感は感じても、被害者意識の方が圧倒的に強く、世間に対してもいわゆる「被害者面」が通用する。
 一方、加害者の親族にも、日頃からもっと強く注意をしておけばよかったという後悔の念もあるだろうか、どうしようもなかったという思いもあるはずで、しかし加害者の親族というだけで、世間から厳しい眼を投げかけられる。強い負い目を感じるはずで、そうした有責感に対して強いストレスを感じる。加害者の親族になるくらいなら、被害者の親族の方がマシだと思ってしまう。
 しかしこういう性格が、心を鬱状態に追い込み、ストレスが腰痛という形で身体に襲いかかっているのかもしれない。
 光市母子殺害事件で被害者の夫である本村氏の終始冷静な対応と判決後の態度は非常に立派で、あれには犯人の家族も救われたのではないかと思う。一方、今回の被害者の家族はその対極にある。加害者の親族は、通常の被害者の親族に対する以上に辛い思いをするのではないかと思った。
 だが妻曰く、「想像すると、加害者の家族から電話があった時には強く相手を非難ができなかったのかもしれない。その鬱屈した思いから、警察に情報提供を非難する通報をしたのかもしれない。署長が被害者宅で土下座する映像は、警察がマスコミに持ちかけて撮らせた可能性が高い。とするなら、あの映像は警察としての思惑があったはずだ(翌日になって、携帯番号を漏えいしたのは小学校教頭だったことが判明した)。
 単に警察の記者会見場で頭を下げるよりも被害者宅で、しかもふんぞりかえる被害者の父親の足下で土下座した方が、警察に対する同情が生まれ、非難が小さくなる可能性がある。これらのことを考えた上の映像ではなかったか。」
 確かにそう言われればそう思えないこともない。
 被害者の父親は建設業者で、亡くなった妊婦は10代で結婚・出産していると思われる。こうした人々の思いつくままの言動をうまく操ることで、マスコミや警察は国民の意識をうまくコントロールし、世評を作ろうとしているのかもしれない。
 そう言えば、少し前に祇園で発生した交通事故も、当初はかんてんの発作によるやむを得ない事故という報道が、いつしか犯人の故意犯罪という方向に変化していった。てんかん協会のネゴシエーションやロビー活動でもあったのかなと思ったが、その後は大きく報道されていない。こうして亀岡の事件もしばらくすると多くある交通事故の一つとして、記憶の外に追いやられていくのか。
 ただ、この事件を契機に確認できたことは、いたずらに負い目を感じる性格がストレスを呼ぶということと、マスコミ報道等に直感的に反応せず、冷静に客観的に判断することが必要という教訓。これをよく頭に叩き込むことで、最近よくある妻との諍いが少しでも減って、腰痛も治まるといいのだけれど・・・。