とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

恋する原発

 「不謹慎すぎます。関係者の処罰を望みます。」 扉に掲げられた言葉である。チャリティAVを作ろうとするAV制作会社社員のイシカワを主人公に、破天荒な企画や回想などが綴られ、最後は世界各国の政治家等1万人が福島第一原発前でダッチワイフ相手にセックスをする。「おまんこ」やら「ペニス」やら卑猥な言葉がこれでもかと乱舞する。それは福島第一原発事故を前にして放出された言葉や思いや感情の発露だ。
 原発事故の前後で社会が変わったと言われる。絶対的な力、永遠の力の前で、奔放に全てをさらけ出し、本音を大声で叫び、半狂乱となって深く泣く。全てが無となる可能性の前で、ひ弱で堕落した人間はただうろたえるしかない。
 最終章の前に、全く異質な「震災文学論」というコラムが置かれている。川上弘美の「神様(2011)」、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」完全版、石牟礼道子の「苦海浄土」を引用し、原発事故後の人間のあり方、生きることを問う。この章は本書で伝えようとしていることを作者解説していると読むこともできる。川上弘美らが訴え、宮崎駿らが予言していたこと。それを筆者は本書で高橋源一郎流に表現しているとも。
 事故を起こした福島原発は今も怒り続ける神そのものである。事故後1年半が過ぎ、またもや日本の権力者たちは神を無視することで対応しようとしている。いやそれどころか、他の今はまだ鎮まれる神の目を盗み、その賽銭を掠め取ろうとさえしている。
 触らぬ神に祟りなし。本当にそうか。触らなくても神のいまだに怒り続けている。怒りは本当に鎮まりつつあるのか。他の神の賽銭を奪うことを考えるよりも、まずは怒っている神に目を向け、鎮魂を祈ることが必要ではないか。どれだけ快楽を求め、人間の性に溺れようが、神を忘れて生きることはできない。それが人間としての最低限の生き方だ。人間として生きるということの先に科学や経済はあるのだ。

恋する原発

恋する原発

●学校の教室の壁には、恐ろしい秘密が隠されているのよ!・・・一つ目の壁には、黒板があるでしょ。なぜだと思う? それは文字を教えるためにあるの。文字を覚えるとどうなるかというと、他人の意見を丸暗記するようになるの。それだけよ。文字を覚える前には自分の意見があったのに、文字を覚えた後は、意見がなくなってしまうのよ!(P163)
ソンタグは、「テロは絶対に許されない」の前に、「テロとは何か。時に、テロを必要とする者もいるのではないか」という問いを置いた。考える、ということは、どんな順番で考えるか、ということだ。それ故、彼女は「アメリカ社会の敵」と見なされた。「考える」ことは、時に、社会の「敵」の仕業となるのである。(P202)
●震災の現実を前にして、「ぼくはこの日をずっと待っていたんだよ」と語った人は、「服喪」の前に、このことばを置いた。・・・ところで、「この日」とはなんだったのか。震災によって、この国の中で隠されていたものが顕れた日のことだ。戦後の60年、あるいは、近代の140年、あるいはもっと射程の長く、遠くにおいて、隠蔽されつづけたものが、人々の前に顕れることを、その人は、待ちつづけていたのである。(P203)
●「文明」は、そもそも世界を浄化するためのものだった。知識や技術によって、人間が免れることができない「死」や「老化」や「貧困」から逃れるためのものだった。世界にとって、「死」や「老い」や「貧困」は、浄化されるべき「汚れ」だった。「未来の死者」であるナウシカたちもまた、「1000年前の人類」の顔をした「文明」にとって、「汚れ」であり、浄化されねばならない存在だったのである。(P220)
●「苦海」は、この国のはずれにあって、「文明」が必要とするものを産みだす過程で排出されたものによって「汚染」された海のことだ。では、「苦海」は、「汚染」が浄化された後にならねば、「浄土」(清らかな土地)にならないのだろうか。いや、ちがう、と作者はいう。「苦海」は、「汚染」された土地そのものが浄土であるような世界のことをいうのだ。(P224)