とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ルリボシカミキリの青

 タイトルの美しさに惹かれた。単行本発行時(2010年4月)にもそうだったが、今回新書版が発行され、書店に平積みされた表紙を見て、思わず手に取ってしまった。エッセイ集である。どうしても読みたいわけではないが、読めば心楽しくなる。そんな掌編が60編余り載せられている。週刊文春に連載されているコラム「福岡ハカセのパラレルターン・パラドクス」から再構成・再編集されたエッセイ集だ。
 タイトルの「ルリボシカミキリ」も「パラレルターン」も福岡ハカセの多種多様な趣味から取られている。そして本職の生物学に関わる話題も豊富で示唆的だ。
 「ようこそ先輩」で小学生相手に講義したという食物摂取量と排泄量との比較によれば、摂取量の半分は呼吸で排出されると言う。なるほど、運動量が少なくなった中年以降に太るのはそういうわけか。
 狂牛病対策として全頭検査を緩和したことに対する批判的コラムもある。最近さらに月齢30ヶ月以下まで検査なしで輸入されるよう緩和されたが、福岡ハカセはどう考えているのだろうか。週刊文春の最新刊を見れば読めるのかな。これも興味がある。
 個別のテーマ以上に福岡氏の文章力の巧みさに唸らされる。村上春樹の「1Q84」に対する読後感は秀逸。なるほど。入試問題に採用された顛末に関するエッセイもエスプリが効いていて面白い。いや、理系でこれだけ書ける人は滅多にいない。最高に尊敬する。

ルリボシカミキリの青

ルリボシカミキリの青

●美しい蝶などいない。蝶の美しさがあるだけだ、と。・・・カラスアゲハたちは、自分の仲間を見るとき、そこに緑や青の美しい斑点を決して見てはいない。・・・少なくとも人間がそれを見ているようには。・・・昆虫少年たちは知らず知らずのうちに学んでいる。つまり、蝶の美しさはいつも私たち人間の認識の内側にだけあるということを。だから彼らは内省的なのだ。(P67)
●生物学は「なぜ(why)疑問」には本質的に答えることができない。せいぜい「いかにして(how)疑問」になんとか答えられるかどうかが関の山なのである。それでも、アサギマダラがいかにして日本を旅しているのか、その旅路をこんな風にみんなで調べて報告しあうことはとても楽しいことである。ほんとうは科学は役に立たなくたってよいのだ。(P130)
●内的な支配者として遺伝子的なものを想定し、その決定に身を任せてしまうことは可能だ。・・・でも遺伝子をそのような決定論的なものとみなすのは、遺伝子がそうだからではない。私たちがそう信じたいからである。・・・リトル・ピープルの誘惑的な言い分に対抗しそれと均衡をとるためには、結局、外的なものにしろ、内的なものにしろ、私たちの運命を何かにゆだねるのではなく、自分で自分の物語をものがたるしかない。そこに新しい価値と可能性が示唆される。(P152)
●もし細胞分裂に伴う遺伝子の複製が100%完全に行われれば、・・・たしかにコピーミスに由来するがんは起こらなくなるだろう。しかし同時に生命にとって決定的に致命的なことが起こる。それは進化の可能性が消えてしまうということである。・・・つまりがんの発生とは進化という壮大な可能性のしくみの中に不可避的に内包された矛盾なのだ。(P230)