とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

 ノーベル文学賞の本命と言われながら、今年もまた受賞を逃してしまった。本書は1997年から2011年にかけて村上春樹が受けたインタビュー集である。アメリカ、中国、台湾、フランス、ドイツ、ロシア、スペイン、そしてもちろん日本。全部で19編のインタビューが収められている。
 あとがきによれば、重複している部分を削除するなど、雑誌等に掲載された原稿にかなり手を入れた上で再掲しているとのこと。村上春樹の場合、村上春樹の名前で出版されるものについては、小説はもちろんこれらの雑文であってもかなりきちんと目を通し、手を加えて外へ出ていくもののようだ。逆に言えば、村上春樹の意思を持って出版されたインタビュー集である。つまり、村上春樹はこのインタビュー集で話したことを我々に伝えたかったのだ。
 それは生い立ち、小説を書く手法、それぞれの作品を執筆していた当時の状況、テクニック的には進化し成熟していると考えていること、実験的な試み、そしてそれぞれの時点で考えていたこと。筆者の社会に対する見方や思想は、テレビ取材なども受けず、あまり語らないようにしているが、それでもエルサレムカタルーニャでの講演などで伝わってくる。それらはやはり一定の傾向を示しているし、それは村上作品の愛読者にはなじみの考え方、感じ方だ。そしてそれは大きな「癒し」である。
 小説を読む動機は、少なくとも私の場合は、「癒し」を得たいということだ。責務や教訓のような小説は読みたくない。スリル、緊張、快楽、愉快、そうして感情を揺さぶられて、癒されていく。まるで心のマッサージのように。そして村上春樹はそうした僕らの思いをドンと受け止めて応えてくれる。自らの想像力の飛翔を示して、僕らの心の飛翔を促してくれる。寄り添ってくれる。だから定期的に会いたくなる。
 本書を読みながらまた無性に村上春樹が読みたくなった。それでまた「ねじまき鳥クロニクル」を読み始めた。やはり村上春樹の世界は心地よい。本書はそういう読者の周期の間を埋め、次の周期へ誘うための小型エンジンのようなものか。

●自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。・・・これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。(P114)
●物語というのは、世界中にあります。ギリシャ神話の物語性、日本説話文学の物語性、・・・いろんなところにいろんな異なった物語性があるんだけど、世界中の神話に共通する部分があるのと同じように、物語性の中にもお互い呼応する共有部分というのが、いっぱいあるわけです。そういうものをひとつの座標軸として活用していくしかないんじゃないか。(P148)
●コミカルなキャラクターは精神を平衡化するためのものです。ユーモアのセンスというのは安定の中から、あるいは安定を指向するところから生じるものです。・・・もしシリアスになったら、そこから安定が失われていくかもしれない。・・・シリアスネスは客観性と相容れないところがあるから。しかしユーモラスである限り、基本的に安定は損なわれません。(P233)
●「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、・・・やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。・・・だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。(P338)
●小説家としては楽観的です。どういうわけか僕は、良い物語を読んだり書いたりすることで、世界を変えられると信じているのです。・・・そして僕の物語を読んでいるあいだは、読者にもそれなりに楽観的であって欲しいと思っています。・・・それで僕は、ユーモアがあることはとても大切だと考えるのです。(P561)