とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

非常時のことば

 「『あの日』は日本の歴史に残る大きな転換点になった。後世に必ずそう言われるだろう。」・・・震災後、原発事故後、多くの人が口にした言葉である。高橋源一郎もそう感じた。「あの日」を境に、「ことばや文章の様相が変わった」、「ことばを失った」、「読めなくなった文章がある」。小説家であり、文章の専門家である筆者は確かにそう感じたと言う。私もそうだったか。「文章」について、「ことば」について、確かにそう感じたとは言えない。が、時代が変わった、価値観が変わった。メディアの偽善性が明らかになり、政治家への不信感が募り、自他の境が厚くなった。
 この「非常時」にあたり、作家・高橋源一郎が、「ことば」について、「文章」について分析し、開示し、今の時代にありうべき「真のことば」「真の文章」について語る。
 多くの文章が引用されている。加藤典洋のエッセイ「死に神に突き飛ばされる」。ジャン・ジュネパレスチナ難民キャンプ虐殺事件のルポルタージュ「シャティーラの四時間」。石牟礼道子の「苦海浄土」。川上弘美の「神様」と「神様(2011)」。
 これらに対応して引用される現実の文章として、野田佳彦の「わが政権構想 今こそ『中庸』の政治を」。海江田万里の「覚悟の手記 大臣辞任を決意させた管総理の電話」。自意識過剰のその醜さを見よ。
 対して内田裕也が都知事選政見放送で語った演説。さらに、ナオミ・クラインの「ウォール街を占拠せよ−世界で今いちばん重要なこと」。それはささやくように語られ、広がっていく。太宰治お伽草子」。山之口獏「兄貴の手紙」。エイブラハム・リンカーンゲティスバーグ演説」。アーシュラ・クローバー・ル=グイン「左ききの卒業式祝辞」。そして「なずな」堀江敏幸鶴見俊輔古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」。
 これらの本当の「ことば」「文章」に共通するのは、「下」に向かうもの、「根」につながった、「大地」から立ち上がる、時に「死者」から届けられ、「死者」に捧げられた「ことば」たち。筆者は長い引用を通し、精妙にその文章の中に分け入り、関係を解きほぐし、言葉を届けてくれる。
 「非常時のことば」は、非常時にも生きながらえ、かつ伝わる。それは飾らない我々の自身から沸き起こり、掘り起こされた言葉だ。それを掴み取るには、邪心なく自分に向き合わなくてはならない。それは簡単なことだが、同時に容易ではない。

非常時のことば 震災の後で

非常時のことば 震災の後で

●ぼくたちは、教わったこと、誰かが経験したこと、前例のあったこと、本に書いてあったこと、それらを参考にして、みんなが認めてくれるような「正解」を導きだし、それを「考える」ことだと思ってきた。でも、いま、ぼくたちは、とんでもない場所に連れて来られたのかもしれない。・・・なにも参考にするものがない場所で、ものを「考える」時、どうすればいいのか。/自分の中を探ってみるのである。そこには、必ず、なにかがあるはずだからだ。そして、それしか、ぼくたちは頼るものがないはずなのだ。(P24)
水俣病の患者は、国や会社によって、この社会によって、殺されたのである。あるいは、徹底的に破壊されたのである。だが、人間が、徹底的に破壊されるとは、ただ殺されることではなく、忘れ去られること、その生が意味などなかったとされることではないだろうか。/そのことを知って、「おねさん」は、これらの「文章」を書いた。そして、生涯、「文章」などとは無縁だった「坂上ゆき」は、「あねさん」の「文章」の中で、蘇ったのである。その生涯が、どれほど豊かであったのかを、証明するために、その「文章」は書かれたのだ。(P84)
●政治家たちにとって、目の前の風景は一つしかない。それは「目に見えている」と彼らが信じている風景である。その、一つしかない風景を前提にして、彼らはしゃべる。/だが、ほんとうは、世界は一つではないのだ。目に見える世界にまとわりつくように、微かに震える、もう一つの世界が存在していることを、ぼくたちは知っている。/「くま」を見ることのできる人間だけが、世界が一つではないことに気づくのである。(P142)
●おそらく、ぼくたちは、気づいてしまったのだ。ぼくたちが生きている世界は、ぼくたちがなんとなくそう思ってきた世界より、ずっと、傷が多いことを。多くの欠陥をもっていることを。・・・いまでも、ぼくたちは、世界がどんな風にできているのか、世界でなにが起きているのかを、正確に知っているわけじゃない。でも、突然、目の前の「壁」にできた、近づいて見ないとわからないほどの、小さな隙間から、冷たい風が吹いてくるのを感じている。(P155)
●「あの日」から、多くの文章が読めないものになったのは、ぼくたちが、「死者」を見たからだ。いや、この目では見なかったかもしれないが、「死者」たちの存在を知ったからだ。ぼくたちが生きている世界は、ぼくたち生きている者たちだけの世界ではなく、そこに、「死者」たちもいることを、思い出したからだ。/「上」を向く文章は、そのことを忘れさせる。「下」に、「大地」に、「根」のある方に向かう文章だけが、「死者」も、もっと正確にいうなら、「死者」に象徴されるものを思い出させてくれるのである。(P184)