とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

{読書]歴史が後ずさりするとき

 「薔薇の名前」「フーコーの振り子」「バウドリーノ」など、これまでウンベルト・エーコの小説を楽しんできた。が、元々エーコは世界的な記号論学者であり、イタリアを代表する思想家である。いや、そう書かれているが、これまでエーコの作品は小説以外読んだことがなかった。最新作が図書館で貸し出されていたのでさっそく予約し読んでみた。
 もっともエーコの専門である記号論の著作に手を出してしまうと、訳のわからないことになってしまいそう。本書はエーコがイタリアの週刊誌に寄稿したコラムや講演録等が収録されたもの。だからある程度読みやすいし、エーコらしいユーモアや皮肉、思想などがよくわかる。そしてその合理的・平和的・調和的な思想態度に安堵した。
 ウンベルト・エーコはイタリアではどういう評価なんだろうか。日本で言えば大江健三郎のような感じか。それとも養老孟司? 本書に収録されたコラム等は2000年から2005年にかけて書かれたものだが、今は既に80歳を超えている。しかしパソコンを使いこなすなど、その知識欲と思考力は衰えを知らないようだ。
 取り上げられるテーマは、第一に戦争と平和グローバル資本主義、そして宗教、原理主義や差別の問題、中でもユダヤ人問題、最後の第6部では死について扱っている。いかにもヨーロッパらしいし、イタリアならでは状況も窺える。そして何よりエーコらしい文体が楽しめる。
 「歴史が後ずさりするとき」というタイトルには、現在という時代が、エビのように過去に向かって退化しつつあるように見えるという皮肉らしい。タイトルからしていかにもエーコらしい。

歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア

歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア

●平和とは勝ち取るべきものであって、天が当然与えてくれるものなどではないと信じている人々は一体どうすればよいのか。残された手は、今後も次々と勃発し続けるであろう数々の旧来型戦争が果てしなく広がる周辺において、可能な限り、平和的区域をいわば「まだら模様」の平和としてつくりだすために働くことだ。世界平和はつねに軍事的勝利の結果だが、一方、ローカルな平和は、交戦状態の停止によって生み出すことができる。・・・ローカルな平和は、疲れ果てた戦争当事者たちに対して交渉団体が調停者としてのりだすときに生まれる。(P40)
●濫用であることを承知の上で濫用する人間は、しばしば自分の行為を何らかの方法で正当化しようとし、ときには・・・その濫用に耐えなければならない人からコンセンサスを得ようとし、あるいはその濫用を正当化してくれる人を探し出そうとすることさえある。だから、権力濫用をしながら、同時に自分の権力濫用を正当化するために修辞学的論拠を使うことのあり得る。(P60)
●労働者階級は平均的利用者としてカーニヴァル化産業の一員となってしまった。・・・労働者階級は番組を与えてくれる人たちに一票を投じ、自分たちを楽しませてくれる人に剰余価値を提供すべく働き続ける。そしてあるとき、・・・われわれの偽善的な良心は、・・・骸骨のように痩せ細った子供を救う募金集めの大々的なチャリティ・イヴェント(これも遊びだ)によって慰められてしまう。/スポーツもカーニヴァル化された。・・・/政治もカーニヴァル化された。・・・/宗教もカーニヴァル化した。・・・/本来が遊び好きな創造物である上に、遊びの度合いの感覚を失ってしまったわれわれは、それゆえ完全なるカーニヴァル化の中にある。(P120)
●なぜ異議を唱えても『ダ・ヴィンチ・コード』は自己再生するのだろうか。それは、人々が不思議(と陰謀)に対して果てしない欲望を抱いているからだ。・・・教会が心配している理由はこれだと私は思う。『ダ・ヴィンチ・コード』(そして「違った」キリスト)を信じるのは、脱キリスト教の兆候なのだ。チェスタートンが言った通り、人は神を信じなくなったら、何も信じなくなるのではなく何でも信じるようになる。マスメディアすらも。(P311)
●地球上のどこであれ、すべての牛が黒であるわけはない。すべての牛が黒だとする思想を人種差別主義と呼ぶのだ。(P351)