とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

厚生政策は出生と死亡に最も金と力を注ぐべきである。

 先日「あなたならどうする孤立死」という本を読んだ。この中で最も心に残ったのは、「人間は自分の死後、自分で歩いて棺桶の中に入ることはできない。誰かの手を煩わせてしまうのである」(p41)という文章。「いかに死ぬか」という死生観を国民一人ひとりが持つことが、孤立死を防止するために根本的に必要なことだとこの本では言うのだが、それはそれとして、確かに人間は誰でも、出生と死亡の時には誰かの世話にならざるを得ない。一人で生まれ育つことはできないし、死を迎えても火葬され元素に戻るまでは人の手に委ねるしかない。しかしその部分が今の日本の医療・福祉制度の中で最も手薄になりつつある。
 出生は両親にとって最も喜びと不安に満ちた出来事である。一方で出生時は事故率も高く、万一、死産や障害が残る状況になれば、家族の悲しみは大きい。悲しみと怒りの心情は出生に関わった医師等に向けられることが多い。同様に、死亡も残された家族にとっては最大の悲しみの瞬間である。もしかしたら別の医師であれば死を避けられたのではないかと思うとき、悲しみの感情は臨終に導いた医師等に向けられることも多い。また、死に向かっている者にとっても最大に不安な出来事なだけに、自らの死を後押しするかのような行為、例えば見守り活動でさえ、「人の死を待ち望んでいるのか」と怒りの対象になったりする。
 結果、産科医が不足し、孤立死対策が後回しになる。しかし、何度も言うようだが、出生と死亡は人間にとって絶対に避けられない出来事である。極論を言えば、出生時と死亡時だけ適切に対応できれば、途中の人生で病気になろうが、ケガをしようが、最後は死がすべてを片付けてくれる。「終わりよければすべて良し」ではないが、病気でどれだけ苦しもうが、安らかに死ぬことができれば、遺族も慰められるし、生前の様々な問題も忘れることができる。
 そう考えれば、医療と福祉は出生と死亡を最大のターゲットとして力と金を投入すべきである。病気やケガをした時に、早く治して仕事に戻したり、変に延命措置を施すよりも、いかににこやかに生き、安らかな死に導いていくかが大事ではないか。経済振興に奉仕する医療から、豊かな人生を支える医療へ。人口が減少する成熟時代にあって、厚生行政もめざすべき方向を大きく変える必要があるのではないか。