とんま天狗は雲の上

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絶望の国の幸福な若者たち

 本書が発行された時に話題になったのは知っていたが、「若者論」には興味がないとその時は読まなかった。先日来、開沼博を読んで20代の社会学者に興味が湧き、先日は大野更紗、そして今回ようやく古市憲寿氏を読んでみた。
 面白い。「若者論」を越えて「日本論」「国家論」になっている。筆者が最後に書いているとおり、別に僕らは「日本」のために生きているわけではないし、かつて「日本」だった土地に住む人々が幸せに暮らせるのだったら何も問題はない(注で書かれているように、もちろん大きな痛みを伴わずに移行することはあり得ないので、それを歓迎しているわけではない)。でもそもそも「幸せ」って何?
 単に同年代というだけで「若者」と十把一絡げにして評する「世代論」に対して異議を唱える。そもそも「若者論」を語る者は年長者であり、彼らは若者のためではなく、自らのために「若者論」を語る。第1章ではこうした既往の「若者論」について明治の昔から掘り返し、その無意味さを述べる。また「幸福感」についても、未来への希望の有無でその割合が上下する。未来が見えない現代にあっては、「今が幸せ」と感じていないと生きるあてさえなくしてしまう。
 第2章「ムラムラする若者たち」、さらに、第3章・第4章・第5章では、ワールドカップに歓喜する若者、政治デモに参加する若者、東日本大地震ボランティアに参加する若者などを取材し、膨大な報道や論文、著作を渉猟する。そして描き出される若者の実像を「生温かく」見守る。「生温かく見守る」という表現が本書中に何度も現れるが、理解はするものの賛同までには至らず、一定の距離を置いて観察するといった意味か。
 書名と同じタイトルの第6章で再び「若者論」に戻ってくる。いや「若者論」を越えて「日本論」「国家論」。ここでは一部の「一級市民」と少ない所得に満足してのほほんと暮らす大勢の「二級市民」という構図が示される。オーウェンの「一九八四」で描かれた世界は本当に不幸なのか。何も知らなければそれが幸せ。現代の若者が描く幸福論はすなわちそういうものだと言っていいのだろうか。いや、大抵の中高年はそう思っているのだが。
 若者らしい突っ込みと冷静さと自覚にあふれた読んで楽しい一冊だった。古市氏の今後に期待する。

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

●世代論が流行するのは、階級論がリアリティを持たなくなった時である。世代論というのは、そもそもかなり強引な理論だ。階級、人種、ジェンダー、地域などすべてを無視して、富裕層も貧困層も男の子も女の子も、日本人も在日コリアンも外国人もひっくるめて、ただ年齢が近いだけで「若者」とひとまとめにしてしまうのだから。(P50)
●「今日より明日がよくならない」と思う時、人は「今が幸せ」と答えるのである。これで高度成長期やバブル期に、若者の生活満足度が低かった理由が説明できる。彼らは、「今日よりも明日がよくなる」と信じることができた。・・・だからこそ、「今は不幸」だけど、いつか幸せになるという「希望」を持つことができた。・・・しかし、もはや今の若者は素朴に「今日よりも明日がよくなる」とは信じることができない。自分たちの目の前に広がるのは、ただの「終わりなき日常」だ。だからこそ、「今は幸せだ」と言うことができる。つまり、人は将来に「希望」をなくした時、「幸せ」になることができるのだ。(P103)
●「世代間格差」と名指しされるものの被害者は、実は「若者」だけではない。たとえば、雇用に関して若者に魅力的ではない制度を維持して一番困るのは、「若者」というより企業のほうだ。・・・社会保障に関しても、失業・雇用対策をないがしろにしたり、子どもや家族向けの公的支出を抑制してまで、高齢者向けの社会保障を充実させて困るのは「若者」だけではなくて、日本という国家全体だ。・・・雇用対策や社会保障の充実は「若者」がかわいそうだから必要なのではない。日本という国家のために必要なのだ。(P238)
●国民の平等を謳いながらも、あらゆる近代社会は「二級市民」を必要としてきた。たとえば日本を含めた近代国家は、「二級市民」という役割をずっと「女性」に負わせてきた。・・・だけど男女同権が叫ばれたり、労働力不足が顕在化する中で、ヨーロッパでは女性の社会進出をバクアップすると同時に、安価な労働力として「移民」を積極的に用いるようになった。/しかし移民労働者の受け入れを拒否し続けてきた日本では、「女性」に加えて「若者」を二級市民として扱うようになった。/すでに日本の若者たちの「二級市民」化は進んできている。・・・このままでいくと、日本は穏やかな階級社会へ姿を変えていくだろう。・・・一部の「一級市民」が国や企業の意思決定に奔走する一方で、多くの「二級市民」がのほほんとその日暮らしを送る、という構図だ。(P260)
●「日本」がなくなっても、かつて「日本」だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである。/一人一人がより幸せに生きられるなら「日本」は守られるべきだが、そうでないならば別に「日本」にこだわる必要はない。(P267)