とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

レイヤー化する世界

「資本主義という謎」で資本主義に代わる新しい世界システムを考えた。そこでは中世から近世への移行、資本主義がどうやって始まったのかをエコノミスト水野和夫氏の案内でたどっていった。本書でも同様に、中世帝国の仕組み、国民国家ができあがっていった経緯を振り返る。その内容はほぼ同様と言える。前書では経済に視線を当てて、本書では権力構造に視線を向けて。だが、「資本主義という謎」では、資本主義に代わる新しいシステムは結局示されない。ただ、資本主義は撤退の難しいシステムだということを言うのみで。
 本書ではずばり新しいシステムについて提示する。それは「レイヤー化する世界」であると。
 「レイヤー化する世界」という表現が筆者の言わんとするシステムを的確に表現しているかどうかはやや疑問がない訳ではない。「レイヤー化」という言葉で表現しているのは、人間は多くの要素<レイヤー>で成り立っており、その<レイヤー>ごとに多くの人とつながりつつ、個人として生きていくというイメージだ。だがそこで最も重要なのは各レイヤーを支える<場>に他ならない。
 筆者が言う<場>とは、グーグルやアマゾンやアップルのことである。ビッグデータを操って世界中の人を把握し、人々は彼らが提供する<場>の上でそれぞれの個性を表現し、<場>をうまく使うことでつながり、生きていく。それを筆者は<場>との共犯関係と言う。
 わからないではない。グローバリズムの進行により国民国家が解体され、超国籍企業が世界を支える。超国籍企業に支えられた<場>が権力となり、帝国となる。そこでは国民国家の弊害、ソトを食い潰してウチが栄えていくシステム、戦争を引き起こすシステムを凌駕し、世界のシステムを新しく書き換えていく。だがそれはある意味、現代のデジタル世界に対する非常に楽観的な捉え方だ。
 ビッグデータは1%の人々に利用され、99%の人々は<場>の中で、<場>を利用しているという思い込みの中で泳がされている。それは、まるで古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」で描く「一九八四年」の世界のようだ。それが幸せかどうかはわからない。いや、人は幸せのために生きるのではなく、単に生まれ、生き、死ぬのみかも。
 世界は確実に国民国家の解体と資本主義や民主主義に代わる新しい世界システムの方向に動いているようだ。それが何であるのか、興味はある。ただしそれがわかるのは、私が亡くなった後かもしれない。

●実はヨーロッパの人びとは、大西洋に出て行くことを運命づけられていたのです。ヨーロッパにだけ立派な開拓者精神があったからではありません。彼らが出て行ける先は大西洋しかなかったから、大西洋に船をこぎ出したのです。(P80)
●ヨーロッパから始まった国民国家というウィルスのようなものが世界中へと感染し、強い軍隊と植民地化という「毒」で侵され、ドミノ倒しのように次つぎと国民国家へと脱皮させられていったのです。(P123)
●いま起きている「第三の産業革命」は、これまで先進国がウチに留めていた仕事を、ソトであるアジアやアフリカ、中南米などの新興国に分散しています。これは、近代ヨーロッパの世界システムの重要な要素だった「ウチとソトを分けることによってウチが繁栄する」という原理を、破壊しようとしています。・・・でも考えてみれば、それは国民国家と民主主義に支えられた世界システムのなかに、永きにわたって秘められていた自己矛盾だったのかもしれません。こっそりと埋め込まれていた時限爆弾が、ついに起動し、そして爆発に向かってカウントダウンが始まっているのです。(P150)
●権力は、国民を法律でしばる国家から、人びとの行動の土台となる<場>へと移っていくでしょう。上から人びとを支配するのではなく、下から人びとを管理する、そういう形に権力のありかたは変わっていきます。権力は、国民国家から奪い取られるのです。国家の権威は消滅し、最終的には国という形そのものさえもなくなっていくかもしれません。すべては<場>に吸収され、<場>こそが国家に代わる権力になっていくと私は考えています。つまり、<場>を運営している新しい企業体こそが、権力の源泉となるという世界がやってこようとしているのです。(P214)
●言ってみれば現代の超国籍企業がつくる<場>は、情報が流通しやすい交易システムのようなものです。・・・中世の帝国を現代的に進化させた<場>のシステムは政治とは無縁で、運営自体も少数精鋭で行われています。これは<場>という世界システムを中世帝国よりもずっと堅固にしていくでしょう。(P236)