とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

終わりと始まり

 2009年4月から2013年3月まで4年間にわたり朝日新聞夕刊に月1回掲載してきたコラムを収録したもの。この間に東日本大震災があった。それで池澤夏樹氏の意識は変わったか。たぶん変わったのだろうと思う。それ以前には環境や自然としての肉体や手作業などに関するコラムが目を惹いたが、後半は喪失や未来について考えを巡らせる内容のものが多くなった。
 震災後に出版された「双頭の船」では、震災で見失った人々の生や心を船でもってつないでいく。池澤夏樹はこの小説でもって震災への鎮魂を行った。だがコラムではこうした想いは直裁には現れない。ただ端正に文字を刻むのみだ。
 文筆家らしく無駄のない研ぎ澄まされたような文字が並ぶ。それが小田嶋隆内田樹らとは違う。彼らは主張したいことを説明するために文章を書き、時に技巧を凝らす。池澤夏樹ももちろんより伝わるよう推敲を重ねるのだろうか、それにより技巧が削ぎ落とされ珠玉のような文章になっていく。それは悲しみや怒りさえも一緒に磨き込まれた静謐な文章。
 あとがきが「コラムとエッセーはどう違うか?」と書き出される。コラムと言っているように思うのだが、「初出紙」の欄には「各エッセー」とある。

●もともとエッセーは試論という意味である。・・・それに対して、コラムの基本はジャーナリズムである。(P227)

 コラムにしてエッセー。たぶんそういうことだと思う。珠玉の文章もいいが、次は小説を読んでみたいと思った。躍動の端切れに池澤夏樹の魅力が煌めいている。その眩しさを感じたい。

終わりと始まり

終わりと始まり

●この辞書を読みながら、かつて人間にとって生きることはこんなにも具体的であったかと思った。ものの重さや質感、匂い、生活の一場面、不幸と幸福がそのまま一つの単語に出ている。・・・あらためてこんなことを考えたのは、今の日本語からこういう具体的な動作の動詞が減りつつあると思うからだ。・・・万事がバーチャルになって、自然という揺るがぬ枠組みを失って、人の欲望だけでことが決まる。ヤガン語やアイヌ語にあった生きることの困難と喜びは現代の日本語にはない。(P20)
平均余命の表によればぼくはあと一九年ほど生きるらしい。それを前提として残りの日々を組み立てなければならない。/不吉なことを言う前に希望をこそ語るべきなのだろう。とりわけ悲観論が多い日本の未来についても、世界のありようについても、責務のつもりでせいいっぱい希望を強調する。(P69)
第一次産業は自然のすぐ近くにある。自然はなかなか人間の思いどおりにはならない。自然から遠くなればその分だけ人間は傲慢になり、自分の力を過信し、道を誤ることになる。その弊害を我々はいくつも見てきたのではなった。/第一次産業に携わる人々の誇りを奪ってはいけない。人が生きることの根源に最も近いところで働いているのは彼らだから。(P104)
●この地上にあるかぎり、我々は重力の縄に縛られている。逃れようがない。人間はすべての筋肉を重力に対抗するものとして養ってきた。・・・ヌードの美しさは重力と筋肉・骨格の間の緊張関係から生まれるものである。/それは、人間は跳べるけれども飛べないという厳粛な事実に戻って考えれば明らかだ。現代の表現者は安易に人間を飛ばせすぎる。早い話が宮崎駿はあんなに少女たちを飛行させるべきではなかった。あれですべてがバーチャルになり、自然の抵抗感がなくなり、生きることぜんたいが軽くなった。鳥類は飛ぶ能力を得る代わりに大きな脳を諦めたのではなかったか。(P175)
●事態を正確に読んだ上で楽天的にふるまう。それは不運を乗り切る力の一つであるだろう。(P194)