とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

銀河鉄道の彼方に

 宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」へのオマージュ作品。書き出しは宮澤賢治によく似た文体で始まる。宇宙飛行士の父を持つG**と科学者を父に持つC**を主人公に、宇宙の秘密について語り合う。C**の父親が語るG**の父親の話を聞く。G**の父親は宇宙飛行に出たまま帰ってこない。
 そして「あまのがわのまっくろなあな」の言葉を残し、宇宙に消えた男の手記。宇宙は、この世界は誰が動かしているのか。世界はいくつあるのか。我々はいくつもある宇宙の筋書きの中の一つなのか。
 そして第3章「真夜中の銀河鉄道」では、鉄道に乗るジョバンニが様々な物語を経験する。中には作者・高橋源一郎の息子のランちゃんも。ランちゃんとジョバンニが手をつないで駅を降り立ち共に歩き出す。そして世界は進む。
 宇宙とはナニ? 世界はどう成り立っているのか? 小説世界と現実世界の交錯 世界を書いているビッグダディの存在。小説家さえ、誰かに描かれた存在か。 そうして無関係な物語世界を垣間見ては銀河鉄道に戻ってくる。銀河鉄道は死への旅路か? いや誰もが共に乗り、また降りる宇宙を運行する時計。宇宙とは何か? 時とは、空間とは、人間とは何か?
 答えはない。高橋源一郎の猥雑で雑多な世界につきあうのみである。そして長い。563ページ。もっとも空白や行替えも多い。空白が多くを語っているようだが、残念ながら僕には何も聞こえてこない。それこそが宇宙だ。

銀河鉄道の彼方に

銀河鉄道の彼方に

●ぼくは、ここにいます!/いくら叫んでも、「声」は、底へ落ちていきました。だから、ジョバンニは、さらにいっそう、強く叫びました。何も聞こえず、なにも見えませんでした。だとするなら、ほんとうに叫んでいたといえるでしょうか。そんな考えが、ちらりと浮かびました。だが、ジョバンニは、自分の中に芽生えた、その「怯え」のようなものを、激しく拒んだのです。ぼくは、ここにいる。それだけは疑うことができないのだ。それを疑うことは、世界のすべてを疑うことだ。/ぼくは、ここにいます!(P198)
●「わたしたちは、習慣によって、そのように考えるものだ、そのように感じるものだ、と教え込まれることによって、ありもしないものを感じるようにさえなる。『闇』とか『無』もまた、その類のものではないだろうか。ジョバンニ、聞こえるか。ありもしないものを感じるわたしたちは、その逆に、ほんとうは存在するものを感じなくなってしまうのではないのか。(P227)
●「汽車」は確かに、ぼくたちを、眠っていても、どこかへ運んでくれる。でも、ぼくたちは、自分の足で歩かなきゃいけないんだ。ジョバンニは、そんな気がしたのです。(P269)
●わたしにはわかっていたのだ わたしはお話を作っていたのではない わたしは わたしの生きているこの世界の向こうにある もう一つの「ほんとうの世界」のことを記しつづけていたのだ。(P506)
●少年は気づいた。少年期にいる人間だけが持つ特別な叡智によって。ぼくたちは「いる」のだ。世界は「ある」のだ。それ以上のなにを望めばいいのか。少年の中には怒りに似た感情が渦まいていた。/「行こうか」/「うん」/少年は、もうひとりの子どもの手を強く握りしめたまま、ゆっくりと歩きはじめた。(P563)