とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

大人のいない国

 2008年に発行された単行本を文庫本化したものである。終章の対談「身体感覚と言葉」とそれぞれの筆者による「文庫版あとがき」が付け加えられている。
 読みながらひょっとして単行本を読んでいるのではないかとびくびくしていた。いつか読んだような文章が並び、だが読んでいないような気もする。過去のブログを検索してもヒットしないから多分読んでいないのだろう。
 哲学者の鷲田清一内田樹を読んでいて知った人だが、最近は新聞のコラムなどでもよく名前を見る。そのバランスの取れた包容力のある言説は読んでいて気持ちがいい。これを機に鷲田氏の本を読んでみようかと思ったが、モード論には関心がないし、臨床哲学は癒されそうだが、その先の進展がなさそう。癒されたいときに読んでみるといいかも。
 本書について言えば、いつもの内田本と違い、共著・対談者の鷲田清一が対等に渡り合い、どちらが話している言葉かわからなくなる。それだけ鷲田氏の言葉や主張がよく伝わってくるということ。
 個人的には「大人とは多重人格であること」という見切りがうれしい。そのくせ、どの年代の自分も中途半端なのが悲しい。それを受け入れ、自信と覚悟を持って開き直れ。それが多重人格な自分に自信を持つこと=大人としての自覚を持つことなのだろう。自分がどこまで大人になっているかを自問しながら読んだ。そう、あなたは大人ですか?

●ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。われを忘れてなにかに夢中になる、・・・世界の微細な変化に深く感応できる、・・・・社会が中枢神経としているのとは異なる時間に浸ることができる、・・・「この世界」とは別のありようにふれることができる、そんな、芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできないのだ。(P7)
●僕は、「知識と教養は違う」とよく学生に言うんです。図書館にある本は情報化された知識ですよね。教養というのは、いわば図書館全体の構成を知ること。教養というのは知についての知、あるいはおのれの無知についての知のことだと思います。(P29)
●生きてきた年数分だけの自分が一人の人間の中に多重人格のように存在する。そのまとまりのなさが大人の「手柄」じゃないかな。善良なところも邪悪な部分も、穏やかなかたちで統合されている。そういうでたらめの味が若い人にはなかなかわからない。(P40)
●「正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである」。必然のこと、つまりそうしかしようがないという意味で、そこに「自由」の余地はない。そうだとすると、パスカルの言葉を引き継いで、それを裏返し、弱いものに従うこと、そこに「自由」がある、と言うことはできないだろうか。(P72)
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論の行き交う場」そのものであるという、場の威信に対する信用供与のことである。(P94)
●「両親が同一の価値観を持つ家庭」というのは、比喩的な言い方を許してもらえれば、「北朝鮮化された家庭」のことである。思想統制された国家から知的なイノベーションや創造的な芸術が生まれることがきわめて困難であることは人々はすぐに同意してくれるが、構成員が同一の価値観をわかちあう家庭からイノベーティブで成熟した市民が育つ可能性はきわめて低いということにほとんどの人は同意してくれない。しかし原理的にこの二つは同じことなのである。(P121)