とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

サッカーと11の寓話

キャンペーン協賛(笑)「秋の夜長は読書とブログ
 「サッカー批評(64)」の中の佐山一郎氏の記事「サッカーメディアの質が平均点止まりになる理由」を読んでいたら、編集者はもっと幅広い視野で執筆者を探さなければダメという文脈の中で、イスラム研究者の池内恵さんの「書物の運命」とともに本書が紹介されていた。「書物の運命」はイスラム研究者による書評とエッセイで、「サッカー批評」で紹介されていた「イスラーム的サッカー」は読んだが、それ以外はかなり専門的なので借りるのはやめて、本書を借りてきた。もっとも本書も小判で大きな活字の100ページ少しのコンパクトな本だ。
 作者のカミロ・ホセ・セラがノーベル賞を受賞したスペインの作家ということすら知らなかった。タイトルのとおり、サッカーに関わる事柄をモチーフに書かれた11の短編集。短編といってもどれも8〜10ページ程度の4000字にも満たない極短いものだ。
 モチーフとされる事柄は、国外移籍、代理人、スター選手、ゴールキーパー、内弁慶なストライカー、片手片足のウィングプレーヤー、ペナルティ・キック、監督、審判、トトカルチョ、サッカーのピッチと道具など。たぶん。(たぶんと書くのは必ずしも明示されていないから)
 もっともサッカーに関わるストーリーが語られるわけではない。モチーフから連想されて、ストーリーは中世の詩人や僧侶、伝統、暴力、血と死、嘲笑、道化、悲哀、苦笑、諦め、皮肉、駆け引き、動物・・・その他、なんでも。自由に滑空し、潜り、停滞し、身体を震わせる。
 まさに自由奔放。だがサッカーを知っている人間にはくすりと笑いを誘う。たぶんスペインでは多くの男性が、女性が、若者が、老人が、各々の寓話に、友人を、知人を、選手を、審判を、オーナーやコーチを思い起こし、苦笑するのだろう。そして漂う血と死の匂いに顔をしかめて不機嫌になる。
 たまにはこんな本もいいかな。日本にはまだこんな文化は育っていない。

サッカーと11の寓話

サッカーと11の寓話

●ピピにせよポポにせよ、契約を取りつけるのは至難の業である。というのも彼らの母国の政府が、祖国の利益を守るため、この褐色の肌の二人の若者が国を離れたら起こるであろう大惨事を避けるという名目で、国家予算をぶち込み大量の試合を主催したからだ。その共和国の首都では、有権者たち(それをファンと呼ぶ人もいる)が街へ繰り出し、・・・外務大臣は熱くなった群集に向かって、我が国は、史上まれなる民主主義の敵どもが、寡頭政治で世界を牛耳る国々の助けを借り、民族自決の原則を無視して企んできた今回の強奪に対し、国連の場で問題にする所存だ、と請けあった。(P15)
●ドミニコ・フェルナンデス、おまえの街の門へ駆けつけて、異国人どもの侵入から(さらには彼らの目からも)街を守るのだ。街が包んでいるものは皆、ドミニコ・フェルナンデス、おまえのものだ。(P46)
●犬というのはろくでもない稼業で、中庸というものを知らない。よく知られているように、犬の間には中流階級がなく、あるのは輝かしい貴族階級と、垢だらけで腹を空かせた労働者階級だけである。・・・「ペネルティ・キックを外さなければねえ(P73)
●空中独楽で遊ぶ女の子たちの心の中には、大罪の幼虫が人知れず巣食っている。今はけだるいようなその芋虫も、色とりどりの羽が生えるようになるや、気ままで移り気な小鳩に変身することがある。(P78)
●国際的プレーヤーになる方が、国際審判員になるよりも、何倍も易しい。それに審判稼業自体もずっときつくて、ブーイングを鳴らし、地団駄踏み、口角から泡を飛ばし、(例によって)誰かの首(審判の首というのが世の常だ)を要求する大観衆と、まともに向き合わなければならないのだ。(P95)