とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

犬婿入り

「ペルソナ」と「犬婿入り」の中編2編を収録。多和田葉子は「犬婿入り」で芥川賞を獲得しており、どんな作品なのか読んでおきたかった。いずれも1992年に初出。
 「ペルソナ」は多和田の一連の作品の原点とも言うべき作品かと思う。ドイツへ留学して暮らす道子が、ドイツ人の中に会って、違和感を感じ、移民街へ足を運び、最後は能面を被って町を歩く。その時初めて、異人を見る外国人の目から解放されたように感じた。多和田は常に外国人の中で日本人であることを意識して作品を書いている。

●『ペルソナ』は外国人や移民の住むドイツの都市を舞台に文化的差異における異物を扱った小説だとするなら、『犬婿入り』は異物の存在を見えない存在としてしまう共同体の強固さを描いた作品といえるだろう。(P145)

 巻末の与那覇恵子の解説である。「犬婿入り」はさらに異様な作品である。郊外団地と旧市街地の間で学習塾を開くみつこのところに、ある日突然、太郎という若者が住みつく。太郎は犬に憑依されており、みつこ相手に犬同様の行動を取る。そして、飯沼太郎(「イヌ」が間にある)の元妻・良子が現われ、ある日突然、みつこのキタムラ塾は閉鎖される。太郎も旅立っていったらしい。
 現代の伝奇物と言っていいのかもしれないが、いかにも多和田らしく、どこかしらユーモラスで淡々と語られる。現代社会の共同体の強固さを描いたというよりも、現代社会の裏で息づく伝奇的世界として読んだほうが楽しそうだ。いや、怖そうだ。でも怖い話も多和田にかかるとユーモラスになってしまう。そこがいい。

犬婿入り (講談社文庫)

犬婿入り (講談社文庫)

●同年輩のドイツ人なら、ニガイものをまちがって噛んでしまったような表情が口のまわりに刻み込まれているものだが、セオンリョンの顔には、ニガイところが少しもないのだった。顔をしかめた時さえ、ニガ味は全くないのだった。・・・可愛らしいけれど、美しくはない、とトーマスの妹が、道子の顔を批評したことがあった。美しい顔にはニガ味がなければいけない、とトーマスやその妹は考えているのだった。(P10)
●もう何も尋ねてほしくない。ひとりにしておいてほしい。道子には物事を説明しなくても済んでしまうことが多かった。何も説明せずにぐずぐずしていると、得体の知れない暖かい気持ちが生まれてきて、道子に対してやさしく振る舞うことができるのだった。そのまま、ぼんやりと暖かい世界へそれとなく踏み込んで行くことができるのだった。(P21)
●道子は避けたいと思っていたところへ一歩ずつ深く踏み込んでいったのだった。・・・本当は避けたいと思うのならば避けることもできただろうに、そうはいかなかったのだった。道子はそれを自分の中にある気持ちだとは感じていなかった。道子はそれを、外から襲いかかってきた力だとは感じていなかった。中も外もないのだった。(P43)
●道子は面で顔を隠して歩いていると言うよりは、からだを剥き出しにして歩いているような気がしてきた。しかも、それは鑑賞用のからだではなく、強い言葉を持つからだなのだった。・・・道子は・・・あるひとつの顔から解放されたのだという気持ちで胸がいっぱいだった。こんなに堂々と胸を張って歩くのは久し振りだという気がした。・・・道子が一番日本人らしく見えたこの日に、人々は道子が日本人であることに気づかないのだった。(P74)