とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ウェブ社会のゆくえ

副題は「<多孔化>した現実のなかで」。<多孔化>がキーワードだ。筆者はこの言葉を「現実空間の中にウェブが入り込み、複雑なリアリティを形成している状態」という意味で使っている。正直、わかりにくい。
 そして「ウェブ社会のゆくえ」というタイトルからは、ソーシャルメディア等が一般化していった先の未来を語る書物だとばかり思っていた。しかし実はウェブ社会における現実空間における共同性について考察した本だった。
 しかも最新の社会学の書物からの引用が非常に多い。引用は本来、引用元の書物の中でこそ生きている文章を切り取って再利用しているため、本書の中に置いたときに意味がわかりにくいことが多い。本文と引用文を読んでいると、何が言いたいのかわからなくなってくる。
 ということで、どこまで理解したかわからない。
 ウェブ社会においては、これまでと違い、一つの物理空間に複数の意味が与えられ、かつその空間に同時にいる者が違う空間認識を持つことが当たり前になる。これまで同一空間にいればそれだけで共同性を感じていたものが、ウェブ社会においては、同一空間にいても全く異なる共同体の中にいるということがあり得る。
 そうした多孔化現実における政治力学、権力、観光、地域アイデンティティシビック・プライド)などを考察する。そして、阪神大震災後の神戸や広島などの悲劇の記憶と喪失を通じて共同性について考える。
 言わんとすることはわかる。だがこれが「ウェブ社会のゆくえ」だろうか。ウェブ社会の一面ではあろうが、我々の空間認識や世界観はまだまだ大きく変容する途上にあるのではないか。筆者のいる世界が先端過ぎて、私の理解が追い付いていないのかもしれない。いや多分そうだろうと思う。よくわからない。

●他者に見られることを前提に自分について書くことで、他人から見られる自分を演出し、そのことで安定的な自己像を獲得している・・・。だからこそソーシャルメディア上で「他人からどう見られているか不安」という場合には、「見られたくないところまで見られているのではないか不安」ということではなく、「見て欲しいように見てもらっているか不安」という心理状態が生じているのだと考えられる。(P93)
●いまや現実空間はメディアを通じて複数の期待が寄せられる多孔的なものとなっており、また同じ空間にいる人どうしがその場所の意味を共有せずに共在するという点で、空間的現実の非特権化が起きているのである。/多孔化した現実空間をどのように生きるか。それはこれからも個人の重要な選択としてあり続けるだろう。だがここで大きな問題が生じる。個人がどのような意味の空間を生きようと、物理空間はひとつしかなく、私たちはその物理空間でともに生きているということだ。(P137)
●人が人に遺せるものがあるとすれば、それは物理空間の環境と情報、つまり「場所」と「智恵」だ。場所の復興が進んでも、智恵が継承されないなら、私たちは次世代に対して半分の責任しか果たさないことになる。・・・現在の時点から20年後に向けてゆっくりと遺されていく、未来の人のための智恵を生み出すこともまた、現在の人々の責任ではないか。(P250)