とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

最近のChikirinってちょっと変?!

 「Chikirinの日記」に対して私などが意見を言うのは恐れ多いとは思うものの、最近はかつてのように惹き込まれて精読することも少なく、流し読みどころかタイトルを見ただけでFiedly上で既読にしてしまうことも多くなった。そして先日の記事「Chikirinの日記:『AともいえるがBともいえる』とか言う人の役立たなさ」を読んで、さすがにこれはおかしいんじゃないかと思った。
 昨日「ニュースの社会科学的な裏側:決定できないと言う意見は無意味? −がんばれChikirin!へこたれるな!」を読んだら、私と同じような感想が書かれていた。やはり同じように感じる人はいるんだと勇気をもらったので、私も少し書いてみよう。
 Chikirinは「『AともいえるがBともいえる』とか言う人は、自分でしっかり考えていない」と言うわけだが、しっかり考えたが故に「AともいえるがBともいえる」と言っている可能性を排除している。「AかBか」ではなく、「CかDか」こそが大事で、例えば「Cであれば、AでもBでもどっちも変わらない」という意見なのかもしれない。それを答えは「AかBかのどちらか」と決め付けて、「『AともいえるがBともいえる』とか言う人は、自分でしっかり考えていない」と決め付けるのはあまりに偏狭な考えではないかと思った次第。
 実はしばらく前にも、Chikirinの記事で「それは違うんじゃないか」と感じた記事があった。それが「Chikirinの日記:始点に立っていても、ゴールまでの道筋見えません」。この記事ではChikirinは「まずはスタートしなければ始まらない」と独立や起業を勧めるのだが、その際に参考に挙げるのがChikirin自身のことや他の成功者のこと。しかし成功者がこの類の言葉を言って独立を煽るのは非常に罪作りだと感じた。Chikirinはけっして手ぶらでスタートしたわけではない。スタートをしてもゴールまでたどり着く人はほんのわずかなのだ。成功事例はけっして参考にならない。成功事例と失敗事例の間にこそ次の成功事例があるのではないだろうか。
 「Chikirinの日記」は他の人には思い付かないような視点から現実をクリアカットに裁断して見せるのが本領だし、それに多くの人が魅せられたのだと思うが、最近は昔ほどその種の記事が少なくなった。代わって増えたのがゲーマーやプログラマーなどの才能人へのインタビュー。たぶんChikirinがフリーになってこの種の仕事が増えたのだろうが、正直あまり面白くない。Chikirinが面白がるほどにはその人のすごさが伝わってこない。いや、面白がれば面白がるほど、その面白さが伝わってこないのだ。たぶんChikirinのキャラが立ち過ぎて、お互い干渉しあってしまうのではないか。
 そしてChikirinに期待する独創的な発想の記事もあまり見られない。フリーになって思考や視野が狭くなっている感じがする。独立する以前の組織の中にあってこそ、しがらみに捉われない発想が生まれていたのではないか。しがらみがなくなって却って自由な発想ができなくなっているような感じがする。組織こそが刺激の源だったのかもしれない。私も「ニュースの・・・」氏と同様、Chikirinのかつてのようなキレのある記事を読みたいと願っている。がんばれ!Chikirin!