とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

誰も戦争を教えてくれなかった

まず、脚注がとっても面白い。娘に読ませたら、喜んで脚注を先に全部読んでしまった。本文はいつ読むのだろうか。
 冒頭、パールハーバーのアリゾナ・メモリアルの訪問記から始まる。我々がよく知っている戦争(平和)博物館の多くは、展示物で戦争の悲惨さを訴えるものが多い。ところがアメリカの戦争博物館は「爽やか」で「勝利」に溢れた空間だった。そしてエンターテインメントに溢れる「楽しい」場所でもあった。えっ、ホント!
 のっけから惹き込まれてしまった。アメリカ人にとって第二次世界大戦は「よい戦争」なんだ。そうすると「戦争観」自体も国によって大きく異なるはずだ。そう感じた筆者は世界の戦争博物館を巡る旅に出る。
 ということだけど、脚注では、実はけっこうちゃっかりショッピングモールへ寄ったり、普通の観光地へ行ったりしながら、その合間に博物館を訪れていたことが自白されている。それだけでなく、真面目に書かれた本文を脚注で茶化したりして、とにかく脚注が楽しい。
 もちろん戦争博物館を巡るだけではない。巡りながら、戦争博物館は何を伝えているのかを考える。現代の戦争に思いを馳せ、実は戦争博物館は現代の戦争への想像力を奪うものではないかと危惧する。遠い地で戦われる戦争は、庶民にとっては最大のエンターテインメントだと喝破する。そして戦争博物館を建てるだけでは平和は訪れないとその効果に疑問符を付ける。
 戦争と平和は実は同義語かもしれない。とすれば、僕らは今さら知りもしない、忘れ去られ偽装された戦争を知ろうとするよりも、現在の平和の中から戦争の意味について考えていけばいい。いやそれしかできないだろう。借り物の思想よりは地についた思考を。最後はそこに戻っていく。たぶんそうなんだろう。
 最後に「ももいろクローバーZ」との対談が掲載されている。

●「何が大切かは、本当はわかっているんだろうけどね。うちらでもわかるくらいだから。」「でも逆に忘れちゃうのかもね。うちらなんて難しいことわからないけど、難しいことばっか考えてる人は単純な考えができない。もしかしたらバカな人が必要なのかも知れない。」(P319)

 ホント、そうかも。巻末に世界45か所の戦争博物館に点数を付けた「戦争博物館ミシュラン」も付いている。エンターテインメント性などを評価して、総合点トップは「ザクセンハウゼン記念館・博物館」。「アウヂュビッツ博物館」と並んで韓国の「戦争記念館」が堂々の2位に入っている。エンターテインメント性が群を抜いているらしい。一度行ってみるのも面白そうだ。

誰も戦争を教えてくれなかった

誰も戦争を教えてくれなかった

●歴史を扱う博物館は、決して死物の貯蔵庫ではない。歴史の再審のたびに展示内容が書き換えられ、その表現のテンションまでが変わる。生きた「現在」の場である。国立戦争博物館からは、過去の戦争そのものというよりも、いま現在、国家がどのように戦争を残したいのかが見えてくる。(P14)
●ゲリラ、テロリストが暗躍する「小さな戦争」では、防衛の担い手も国家による正規軍から株式会社による安全保障ビジネスに移行しつつある。もはや世界の戦争は「第二次世界大戦」モデルなんかでは動いていないのだ。/つまり、戦争博物館ホロコースト記念碑が悲惨さを訴える「戦争」とは、もっぱら70年近く前に終わった「古い戦争」に過ぎないことになる。ということは、「国家が戦争を記憶する」「国家が戦争の悲惨さを訴える」ということ自体、もしかしたら現代の「小さな戦争」に対する想像力を奪うことに繋がるのかも知れない。(P86)
●旅順は日露戦争が終わってからすぐに観光地化されていった。戦地や戦跡を巡る旅というのは、近代における最もメジャーな旅のスタイルの一つだ。今よりも遥かに娯楽が少ない時代、戦争というのは庶民にとって最大のエンターテインメントだった。(P118)
●記憶という形がなく、今まさに消えていこうとするものに形を与え、また記憶を持った者同士がそれを持ち寄れる場所として、平和博物館は確かに一定の役割を果たしてきた。/しかし、いくら立派な博物館を作ったところで、その効果は限定的なものだ。・・・ハコモノを作ったからといって、自動的に平和が達成されるわけではないし、急に人々の歴史観が変わるわけでもない。不特定多数に向けた掛け声ほど空しいものはない。(P225)
●あの戦争から70年近くが過ぎ、それを「大きな記憶」として再構築していくのは非常に困難だろう。あの戦争は、もはや古すぎる。/約70年前の人々が、戦争体験を元に社会を作りだしていったように、現代を生きる人々は、今まさに長く続く「平和体験」から思想や政治を紡ぎ出していくしかない。平和ボケでない人など、おそらくもうほとんどいない。(P283)・・・僕たちは、戦争を知らない。そこから始めていくしかない。背伸びして国防の意義を語るのでもなく、安直な想像力を働かせて戦死者たちと自分を同一化するのでもなく、戦争を自分に都合よく解釈し直すのでもない。/戦争を知らずに、平和な場所で生きてきた。そのことをまず、気負わずに肯定してあげればいい。(P286)