とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

記憶は誰かと共有することで保存される。

 自慢じゃないが、昔から忘れっぽい。古くは小学生の頃にランドセルを忘れて登校し、中学生では昇降口で靴を履き替える瞬間にカバンを忘れて家に帰り、入社1週目には電話を切った途端に話し相手を忘れて上司に「誰かから電話でした」と言って呆れられた。
 この年になると、単に忘れっぽいだけなのか、認知症なのかと心配になるが、さすがにこんな経験を50年もしていると忘れないための対策を講じるようになる。電話中にメモをするとか、出掛ける前に持ち物を確認するとか。それでも忘れるから始末が悪いが、忘れる自分に驚くことはなくなった。もっとも周囲の者は驚いているかもしれない。
 昨日もある会合で有益な情報をゲットして、それを担当者に伝えようと思ったが、どうも翌日まで覚えている自信がない。それでもう退社時間も過ぎていて迷惑だとは思ったが、その担当者に電話をして内容を伝えた。「いや、細かい内容は明日伝えるから、こんな話があったということだけでも覚えておいて」。
 こうして記憶を自分だけに留めず、誰かに伝えておくと、彼に会ったときに思い出す。実は昨日もその会合である人に会って、「そういえば彼に伝えることがあったっけ」と要件を思い出した。記憶は記憶単体としてではなく、人やモノと結び付けておくと思い出すことができる。
 「『住宅都市整理公団』別棟:写真によって「思い出」は薄れないTweet」大山顕氏が、「写真は撮り過ぎると思い出が薄れる」という記事に対し、「写真は誰かとシェアすることで『思い出』になる」という趣旨の反論をしていた。本当にそのとおりだと思う。
 記憶は誰かと共有することで保存される。共有されない記憶は忘れ去られる。忘れっぽい私が言うのだから間違いない。