とんま天狗は雲の上

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脱フクシマ論

●本書は、・・・「フクシマ」から「ふくしま」への真の復興への提言集である。(P008)

 「脱フクシマ」という言葉が何を意味しているのか、最初ピンとこなかったが、「はじめに」の文末に上記のように書かれていた。すなわち、特別な「フクシマ」から、かつてのような一般的な「ふくしま」に脱していくためにはどうすればいいか。地元郡山市に住み、福島県で新聞記者、TV局勤務を経て、会津の歴史を題材にした作家活動をしてきた星亮一氏が見聞きし、考えた論考が掲載されている。多くは「政経東北」に掲載された記事である。
 第1章から4章までは被災地の取材結果が綴られ、第5章で持論の教育再建、中でも双葉郡中高一貫教育機関を設置すべきこと、また会津に福島科学技術大学院大学を誘致することを提言している。また、第6章は特別対談として、飯館村・酪農家の長谷川健一氏、富岡町長の遠藤勝也氏、奥会津書房編集長の遠藤由美子氏、東京都市大学教授の宗像文男氏、前衆議院議員渡部恒三氏との対談が掲載されている。
 本書を読んでわかったのは以下のようなことだ。まず、福島の復旧・復興に関しては、原発事故後、除染と帰還ばかりが大きく主張され、除染できなかった場合の次善の策や将来的なビジョンがほとんど語られてこなかった。そして、国や政治家は地方の発意に委ねるばかりでリーダーシップを取る意思はなく、地域では当面の生活が優先されて、将来的なビジョン、ましては県外移住や人口減少につながるような現実的なビジョンは考えることさえタブー視されてきた現実がある。
 筆者の教育再建論にしても、福島の将来的な活性化に向けた提言だが、原発の動向がはっきりしない中で、実現化がどこまで可能かよくわからない。そんな中で、地元民である酪農家の長谷川健一氏、富岡町長の遠藤勝也氏、奥会津書房編集長の遠藤由美子氏らは冷徹な現実を前に「福島県よりも住民の生活が大事であり尊重されるべき」と言い切る。たぶん現実は地元民こそ理解しているのだろうと思う。
 胸を打たれる内容に感動した。しかし未来はここから始めるしかない。かつての会津藩の人々のように現代の福島県の人々もしたたかに、かつ力強く立ち上がるだろう。福島県の50年後の姿は現在とは全く違ったものになっているかもしれない。しかしそれはたぶん日本も同じではないか。未来は、福島にも日本にもそして世界にも、みんな平等に開かれている。現在を生きる我々はその未来を食い物にしてはいけない。沖縄での過ちを福島で再び繰り返してはいけない。

脱フクシマ論 (イースト新書)

脱フクシマ論 (イースト新書)

●何と言っても大事なのは雇用だ。そこで注目すべきは中間貯蔵施設と中間処理施設。汚染されたがれきや土砂は、県外で受け入れてくれるところはなく、県内で引き受けるしかないのが実情。だったら、それらの施設をつくって雇用の創出につなげるべきではないか。・・・目先の除染も大切だが、今後50年を見据えた恒久的な体制づくりにも気を配るべきである。(P141)(県庁OB氏)
原発事故の収束、廃炉には40年の歳月がかかるのだ。原子炉が消えて初めて地域の完全復旧が始まる。つまり、復旧、復興は、今の子どもたち世代が担うことになる。・・・[会津の]歴史に学び、復旧、復興計画の基本に教育を充てるべきではなかろうか。(P175)
●日本の安全保障上、米軍は必要だと多くの日本人は考えている。しかし、それに伴うリスク、米軍基地の存在は沖縄の負担に依存している。・・・その根本にあるのは他人依存の戦後日本人の姿である。・・・同じ事は原発問題でも言える。原発は必要だ。しかし東京に原発は困る。だから国も東京電力福島県原発をつくったのだ。金は払ってきたじゃないか。どこからかそんな声が聞こえる。冗談じゃない。(P190)
●高齢者は村に戻りたいんじゃなくて、村にある自分の家に戻りたいんです。そうした中で、戻れる場所が自分の家ではなく、村内のコミュニティーとなれば、「わざわざ不便な場所には戻らない」「子どもの近くで避難生活を続けたほうが安心」と考える高齢者が大半だと思う。(P206)(飯館村の酪農家・長谷川健一氏)
●避難者が県外に続々と流出すれば、福島県は消えてしまうかもしれない。ただ、県外に出るという選択は真剣に考え抜いて出した結論のはずですから、それはあらゆるケースが正解だと思います。その結果、人口が減り、自治体の規模が小さくなったとしても仕方ないじゃないですか。県を解体させてはいけないという小さなことではなく、最も苦しんでいる避難者の生活をどうやって立て直すかを、全国という大きな枠組みの中で考えていくべきなんだと思います。(P230)(「奥会津書房」編集長・元福島県教育委員・遠藤由美子氏)