とんま天狗は雲の上

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日本人はなぜ存在するか (與那覇潤 集英社インターナショナル)

 一昨年読んだ與那覇潤「中国化する日本」は抜群に面白かった。一昨年の「2012年、私の読んだ本ベスト10」の第1位に挙げている。それで当然、本書も日本の歴史を踏まえた日本人論だと思っていた。
 全然違った。冒頭で「本書は、愛知県立大学の教養科目・・・「日本の歴史・文化」の授業を講義録にしたものです。」(P7)と書かれている。そして「人文系のさまざまな方法論についてひとつずつ、その特徴や切り口を紹介しながら日本文化を考える『文系学問オードブル』のような内容になっています。」というのだが、それでは全然内容がわからない。端的に言ってしまえば、「歴史や文化、社会などは人間の意識が再帰的に認識して作り出したものだ」ということを「日本人」を題材に、哲学、心理学、社会学民俗学文化人類学、地域研究、カルチュラル・スタディ、比較文学比較文化、新歴史主義、ポストコロニアリズム、ナラトロジー、ポストモダニズム、思想史、倫理学の立場から明らかにしていくというものだ。
 たくさん書き連ねた学問等は目次で筆者が太字フォントにしている項目だが、もちろんそれが何か私にわかるはずもない。ただわかるのは、文科系学問では人間認識をより客観的に捉えようとして、捉えようとする視点がまさに人間認識を作っていることを自覚しているということだ。まるで理系学問で観察が観察対象を規定するように。
 だから「日本人」とは、歴史的にも法的にも民族的にも社会学的にも文化人類的にも民俗的にも・・・全くもって多様である。一様には定まらない。それは「日本文化」も「日本国」も同様。さらに「日本人」だけでなく、そもそも「人間」の範囲すら定かには決められないことを「第9章『人間』の範囲はどこまで」で明らかにする。
 面白い。前書に比べれば網羅的ではあるが、筆者の戯画的な筆力が如何なく発揮され、立体的かつ楽しく、あっという間に読み終わってしまった。ま、それぞれの学問において「日本人」や「人間」などがどのように再帰的に捉えられているのか、現代日本においてそれがどのように現われているのかなどは、またそれぞれの学問や立場からの本を読んでみることが必要だろう。まずは、文系学問における基本的研究態度を理解する入門書としては圧倒的に面白く、ためになる。

●本当の昭和30年代の日本社会は「先行きが見えない不安」に満ちていました。だからこそ、自殺や犯罪も多かった。実際には、そういう悩み多き社会だったにもかかわらず、後になって当時を振り返る私たちは、続く時代に人々が豊かになることを知っているがために、勝手にその社会に「希望」や「前向きさ」を読み込んでしまうのです。(P47)
●「子供はその血を両親から受けつぐ」というときの血が、あくまでもメタフォーであったように、アフリカの人々も「ある認識上の比喩を受け入れるなら、自然と感じられる秩序」[幽霊婚や女性婚など]を再帰的に作り出し、社会のルールを納得可能なものにすることで生きてきた。そのことを呪術的というのなら、実は私たち自身もまた、呪術を使って生きている。(P73)
●「外来の要素を日々吸収し進歩する日本文化」という発想が、大東亜共栄圏の夢とともに挫折したために、戦後になってその反省(ないし反動)として、・・・戦時中の傲慢さを招いたそのような考え方は捨てるべきだ。むしろ、日本の文化には西洋とは異質のものがあり、両者を混ぜあわせるなどといういう発想は邪道である。・・・かような価値観の転換が生じたことが、かえって私たちの文化観を「国ごとの・変化のない・伝統志向的な」狭い認識へと変えてしまったのではないか、というのが渡辺氏の考察です。(P100)
エスノセントリズムにも、ふたつのタイプがある。片方は「自分たちは人間として普通のあり方をしており、他民族にはそれが欠けている」と考える「文明型」。もう片方は、「自分たちは普通のあり方をしていないがゆえにこそ、優れている」と考える「選民型」。前者が暴走すると、自分たちのやり方を他の国にも押し付ける帝国主義になり、逆に後者は、みずからの特殊性ばかりを強調して他国からの影響を排除しようとする、鎖国志向や排外主義に陥ります。(P118)
●国籍、民族、歴史、文化など、私たちが「日本人」であることを支えていると思われる要素は、いずれも人間の認識を通じて再帰的に作られたものだった。したがって、それらは政治や経済や国際社会の動向と密接に絡み合いながら、かたちを変えてゆきます。(P138)