とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ボケ防止のための日記

 多和田葉子の「言葉と歩く日記」1月29日の項に「わたしは現在、『二重帳簿』をつけている。言葉に関することを中心に書くこの日記の他に、その他のことを書く普通の日記がある。普通の日記は小学校の高学年からつけている。」(P64)という文章がある。
 私も2年ほど前からブログで日記をつけている。このはてなダイアリーは書き溜めたものを投稿したりしているので純粋な日記ではない。多和田葉子の文章に合わせて書けば、「はてなダイアリーの他に、その他のことを書く普通の日記がある。普通の日記ははてなブログで非公開で書いている。」
 「普通の日記」を書き始めた理由は前にも書いたが、精神的に追い詰められた時に「日常の出来事や思いを日記として残していくことが何かの役に立つのではないか」と思ったからだ。だがその後、精神的に追い詰められるような日はあまりない。旅行でもすれば書くこともたくさんあるだろうが、特別な出来事のある日はごくわずかだ。毎日平凡な日々が続く。
 昔の偉人の日記が取り上げられることがあるが、何を幾らで買ったとか、意外とつまらない日常が書かれていたりする。それらの日々の記録とそれぞれの業績とを照らし合わせることで、複眼的にその人物を捉えることができるようになるのだろう。
 多和田葉子は普通の日記の方にはどんなことを書いているのだろう。やはり何を買った、どこへ行った、何を食べた、何時に起きた、何時に寝た、なんてことが書いてあるのだろうか。
 実は私の日記にはそんなことが書いてある。いつも翌日の朝に前日を振り返りながら書く。当日の夜は眠くなってパソコンに向かう気がしない。夜に書く日記は続かない。だから朝書く。年を取ると早起きになって、朝の時間に余裕があるものだから、このブログを投稿してから、続いて日記を書いている。
 だが、「昨日は朝起きて・・・」と書き始めたものの、何を食べたか、何をしたか、何も思い出せないことがよくある。一晩寝ると、前日のことをすっかり忘れてしまう。先週は、「何もしない土曜日」「何もしない日曜日」「何もしない火曜日」というタイトルの日記が続いた。実際、大した出来事もなかったのだが、何を食べたか、何をしたか、覚えていなかった。
 結局私は、ボケ防止のために日記をつけているのだろうか。若しくはボケの進行度を測るために? もっとも昔から忘れっぽいので、昨日のことが思い出せなくてもあまり驚きはない。昔からそうだったから。