とんま天狗は雲の上

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存在しない小説

 6つの短編小説が掲載されている。そして各小説の後ろに「編者解説」が添えられる。いや本当は「編者解説」の方が本文かもしれない。短編小説1作目はアメリカノベルズ風、2作目はペルーが舞台のガルシア・マルケス風。3作目以降は私の知識不足で○○風とは言えないが、インドネシアを舞台のもの。4作目は日本、5作目は香港を舞台としたハードボイルドタッチ、そして最後の6作目はクロアチアを舞台にした精神崩壊の物語。あらゆる文体を操るいとうせいこうの文才に驚嘆する。
 しかし、文才を誇る短編集ではない。いとうせいこうはこれらの作品が全て無名の作家によって書かれた、そして捨て去られた「存在しない小説」だと設定し、「編者解説」を書く。「存在しない小説」を翻訳という設定で読者の元に届けるのは翻訳家・仮蜜柑三吉。第4作ではいとうせいこうによって書かれ、仮蜜柑三吉により日本語に翻訳された。しかもいとうせいこう自身が、筆者であることを否定するというややこしい設定。
 いったいこの小説でいとうせいこうは何が言いたかったのか。多分1988年の「ノーライフキング」以降、小説を発表せず、昨年、久し振りに「想像ラジオ」を発表したことと関係があるのではないか。その間に書き貯めた、若しくは書いては捨てた小説が今になって再び、仮蜜柑三吉氏によって甦りの声を挙げた。それは「存在しなかったはずの小説」。もちろん本当にかつて書いては捨て去った小説を埃を払って拾いだしてきたわけではないかもしれない。でも筆者にはそれらの小説たちの声が聞こえたのだろう。
 第5作の後の「編集解説」では、存在した小説ですら読者に巡り合えなければ存在しえないことに気付く。読者が小説を存在せしめる。そして第6作は、狂っている自分を描いた小説を読む自分を描いた小説。小説世界とその中の小説世界が互いに入り組んでいる。そして小説の中で消えていく自分。自分とは誰か。自分とは読者のことか。読者は小説とともに消えていくのか。小説と作家と読者の関係を問う小説。それにしても、いとうせいこうってホントに文章が上手い。

存在しない小説

存在しない小説

●それもこれも、バッタと呼ばれる小男が小説を見つけたからなんだろうよ、リカルド。そうでなくてなぜあれやこれやがすべてわかるというんだい?(P66)
●『存在しない小説』は”元のテクストをあらかじめ失ったまま、仮にひとつの翻訳のバリエーションとしてだけ宇宙に存在する”のではないか、と。/ならば、『存在しない小説』は存在する。そのテクストの翻訳だけが”引きずり出”され、文字にあらわされ、印刷され、実際に読まれる。(P83)
●ともかく、ここに「私が書かなかった私小説」が、私の名において存在している。この小説は私からすれば存在しない。あるいは、小説は存在し、私の存在だけが世界から取り除かれた。(P189)
●読者は常に全人格を没入させて読書するわけではない。むしろ「読み手」をスパイのように虚構の中へ派遣しているだけだ。その「読み手」と「小説内の語り手」が共謀して、物語は初めて前へ進む。あるいは後退する。(P228)
●『存在しない小説』とは、読者に読まれることでそのつど生まれ、しかし印刷されて残ることのない小説ではないか。つまり、『存在しない作家』とは読者のことだ、と。(P229)