とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

暇と退屈の倫理学

 國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」を待ちに待ってようやく読了した。思った以上に面白かった。別に暇と退屈で困っていたわけではない。暇ではあるが、そして時に退屈でもあるが、別にそれで困っているわけではない。でも、「暇や退屈について考えよう」と思う國分功一郎には興味がある。どうしてそんなことを考えようとしたのか。
 だから内容について切実に期待していたわけではない。でも読み始めたら抜群に面白い。暇と退屈について考えると、いつしかそれは、人間とは何か、人間の生そのものを考えることにつながっている。人間として生きていくこと自体が常に退屈と背中合わせになっている。退屈な生はまさに人間として生きているからこそ味わうのだ。
 退屈から逃れるために自らを労働の中に疎外させたり、大義に向けて命を投げ出したりすることにないように、退屈な生を楽しまなくてはならない。人生を楽しむこと。そして思考すること。それが退屈とともに生きていく人間らしい生活である。<人間であること>を楽しむこと。それが本書の結論である。
 当たり前のようなことだが、その単純ななかにこそ真実がある。そしてそこへ辿り着くために、パスカルを読み、ニーチェやラッセルを辿り、「定住革命」を学び、ヴェブレンを知り、ガルブレイスを批判し、マルクスに学び、ルソーを理解し、そしてハイデッガーに辿り着く。ハイデッガーの退屈論を検証し、批判し、そして國分氏の理解に至る。
 難しい哲学のはずが、実にわかりやすく、切れ味鋭くスパスパと切り刻み、真実に突き進んでいく。面白い。ハイデッガーはこんなことを言っていたのか。そして國分氏はこんなことを考えている哲学者だったのか。國分功一郎。これからも追いかけていきたい若き知識人の一人である。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

●生きているという感覚の欠如、生きていることの意味と不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。<暇と退屈の倫理学>は、この羨望にも答えなければならない。(P29)
●人間のあらゆる活動が消費の論理で覆い尽くされつつある。・・・現代では労働までもが消費の対象となっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しいという価値を消費する行為になっているというのだ。「一日に15時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。・・・消費の論理が労働をも覆い尽くしてしまった(P152)
●人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。/退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。(P244)
●人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作り出すとそのなかで退屈してしまう。・・・習慣を作らねば生きていけないが、そのなかでは必ず退屈する。だから、その習慣を何となくごまかせるような気晴らしを行う。人間は本性的に、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合った生を生きることを強いられているのだとすら言いたくなる。(P330)
●人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みとなることもしばしばである。(P335)