とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

僕たちは戦後史を知らない

 「まえがき」の断定的・独断的書き出しからややびっくりする。第1章で取り上げる憲法前文の解釈においても、あえて強引な誤読をしているように感じる。万事が万事、その調子である。福田恆存が戦後最高の知性というのは保守論壇の中での常識なのか。いずれにせよ、筆者が定義する「ファンタジーの戦後史」でもって全編、強引に日本の戦後史を説明していく。
太平洋戦争の敗戦を擬制的に受け入れ、それが日本の戦後の歩みを決定付けているというのは、内田樹を始め、多くの論客が主張しているところである。「負けてこそ、本来の目的に近付いた」という負け惜しみの理屈と、大統領選を狙うマッカーサーの思惑、冷戦の深刻化に伴うアメリカの政策転換、人心の空虚を埋めた経済成長などにより、螺旋階段を昇るように何度も「第二の敗戦」を経験しつつ、また「ファンタジーの戦後史」に戻り、さらに奇妙奇天烈な戦後を続けてきた日本。
 だがいよいよ矛盾もここに極まったか? 筆者の言う4回の敗戦とは、1945年の敗戦、オイルショックによる高度経済成長の終焉に伴う2回目の敗戦、バブル崩壊とともに訪れた3回目の敗戦、そして2008年のリーマンショックを契機に発生した世界金融危機東日本大震災等により混迷する現在を4回目の敗戦と数える。そして何度も敗戦を重ねるのは、「ファンタジーの戦後史」を信奉するがゆえの螺旋階段的・循環的な事象だと主張する。
 それが正しいかどうかは定かではないが、もうこれまでと同様にファンタジーにすがっていては、この堂々巡りから抜け出ることはできない。ファンタジーにすがることは螺旋階段を下っていくことに等しいという警告には私も感覚的に賛意を感じる。ではどうするか。筆者はこの歴史解釈を知っておかないと未来への展望がつかめないと言うのだが、ではどうすればいいか具体策を提示するわけではない。雑多な書物と思想をつなぎ合わせただけの俗本という気がする。

●日本人は、占領を(過剰なほど)積極的・肯定的に受け入れることにより、少なくとも主観的には、自分たちの世界にアメリカを取り込んでしまったのだ。一方、アメリカこそは戦勝国の筆頭なのだから、それを取り込んでしまえば、負けて降伏したところで、日本はちっとも絶望することはない。・・・要するに日本人は、真の戦後史から目をそらすことによって、自分たちのプライドが傷つかないようなファンタジーの戦後史を作り上げたのである。(P57)
●「ファンタジーの戦後史」を信じるとは、「日本は(本当には)負けたわけはないと信じつつ、敗北について納得する」ことであり、「戦争放棄や非武装こそ正義だと信じつつ、軍事力を持つのが正しいと見なす」こと、そして「親米路線を取りつつ、反米路線を取ること」なのである!(P138)
●戦後日本とは、「負け」を「勝ち」と言いくるめ、敵であったはずのアメリカを「真の日本」と見立てることによって、どうにか成立しているデタラメな代物ではなかったか?/占領のさまざまな裏事情や、冷戦の深刻化にともなうアメリカの政策転換、そして「何でもあり」を「何でもある」にすり替えた成長路線などのおかげで、このデタラメは崩壊することなく存続してきた。けれどもそれは「国のあり方の根本に筋が通っていないことを、繁栄の獲得によって隠蔽した」にすぎない。(P184)
自由主義的な改革には、日本社会のあり方をアメリカに近づけてゆくという目標も込められていた。・・・「ファンタジーの戦後史」の根底に「アメリカ=真の日本」の図式があることを振り返れば、ふたたび必然のなりゆきだろう。・・・こうして自由主義改革志向の「保守型ファンタジー」は、そうと自覚するかどうかはともかく、「日本の国益よりアメリカの国益を優先させることこそ、日本の国益を真に優先させること」という結論に達する。(P246)
●左翼版の構造改革は、制度の変更を積み重ねることで、社会の根本的な変化、つまり社会主義化の達成をめざした。要するに「革命なしに革命をなしとげる」ための戦略なのだが、保守版の構造改革も、制度の変更を積み重ねることで、日本社会の根本的な変化、つまりアメリカ化の達成をめざす。・・・「アメリカ=真の日本」の図式を利用して、アメリカ化とナショナリズムを同時に主張、「社会の根本的な変化」と「歴史や伝統の尊重」を両立させたがるシュールな発想―それが保守版「構造改革」の正体にほかならない。(P266)