とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ケルベロスの肖像

 海堂尊の作品には、派手な事件が起こり、その展開にワクワクと読者を惹き付ける陽性の作品と、リスクマネジメント委員会などの会議場面が長々と続く陰性のものとがある。本書は、「輝天炎上」と対を成す陰性の作品だ。
 しかも、「輝天炎上」と同時期に東城大学病院で進行しているAiセンター運営連絡会議とその後の開設記念シンポジウムなどの状況をメインに書かれている。「輝天炎上」ではそのAiセンターの爆発計画と実行を巡る丁々発止のやり取りが描かれているというのに。それで「輝天炎上」では描かれなかった重要な顛末が書かれているかと言えば、そうでもない。東城大病院が閉鎖され、高階病院長が病院長を退任し、田口先生が東城大病院再建のための病院長代理に任命されるくらいのことで。それとて、あまりに突然で必然性がよく理解できないが、まあ、そういうことにしたかったのだろう。
 ということで、「チーム・バチスタの栄光」から始まる一連の田口先生シリーズが一つの完結を迎える。いまや桜宮サーガから日本中に広がりつつある海堂ワールドでは、その主役の座も浪速府知事・村雨弘毅らに変わりつつあるのかもしれない。
 と思ったら、最新刊の「カレイドスコープの箱庭」では、また東城大病院を舞台に田口・白鳥コンビが活躍するらしい。あれ? でもおまけがすごいらしいぞ。今度こそ、文庫じゃなくて単行本を購入しようかな。

●伝説とは異端であり、異端は普遍にはなり得ない。そして普遍になることこそが、真の勝利者なのだ。名もない末弟は、自らの名を「イヌ」という一般名詞に溶け込ませることで、真の勝利を得た。だがその前に彼は、自分の前に立ちふさがっていた異形の兄弟、ケルベロスオルトロスを倒さねばならなかった。(P11)
●他人に丸投げしての我慢というのも、なかなかキツいものなんです。・・・田口先生には、シンポジウムでは神輿になっていただきます。神輿はかつがれるもので、自分の意思ではどこへも行けません。その歯痒さ、もどかしさを思えば、私にこき使われていた時の方がまだ幸せだったと気づくでしょう。(P61)
●記憶の中の画像には、明るい瞳をした跳ね返りの女性の姿しか映っていない。かくの如く記憶というものは、いともたやすく捏造されるものなのだ。封印されていた古い記憶が、建物の構造と共鳴して呼び起され、古傷のように俺を苛む。これは一体、何の因果なのだろう。遠のいていく記憶を追って深い淵に沈潜し、自分を見失いそうになる。(P288)
●俺はAiセンター長として、一応抗議しておいてから、容認した。開けてしまったものは仕方がない。現実的対応とは、しばしば妥協と同義である。(P332)
●人間は物忘れする葦である。(P334)
●一瞬、俺の姿が三つ頭のケルベロスに見えた。これから俺は冥界と現世の間を行き来する番犬になるのだろう。あるいは、大学病院と市民社会の境界線を綱渡りするピエロだろうか。いずれにしても、長く険しい道になることは間違いない。だが、俺は覚悟を決めた。心配ない。いつでも俺は、そうやって綱渡りで生きてきたのだ。振り返ると俺は、大勢の人々の温かい視線に包まれていた。(P412)