とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ゆかいな仏教

  橋爪大三郎大澤真幸による対談集。「ふしぎなキリスト教」「おどろきの中国」に続いて第三段は「仏教」を取り上げる。仏教と言えば日本人にとって最も身近であるにも関わらず、世俗宗教としての作法などは知っていても、ブッダの教えそのものはほとんど理解していない。そもそも「ブッダの教え」という言葉が既に間違っている。本書で理解する最大の事柄は、仏教とは「ブッダが覚ったということを確信する」人々による運動だということ。しかも何を覚ったかについてブッダは何も残していない。覚りの中心になるものは「空」であり、その「空」を巡り、さまざまな思想が、宗派が生まれてきた。
 第1章「はじまりの仏教」、第2章「初期の仏教」に続いて、第3章以降は「大乗仏教」について考察していく。するとますますブッダから離れ、運動としての思考活動を解説する形になっていく。これが仏教なのか。いや、日本に伝わっているものはこれこそが仏教なのだ。
 ニルヴァーナ(涅槃)、サンガ(僧院)、慈悲、ダルマ(法)、多仏思想、菩薩、因果論、往生、空、唯識論、Σブッダ、仏性・・・。それらの言葉が時にキリスト教や西洋哲学と比較しつつ、わかりやすく説明されていく。それはほとんど思想のようであって妄想のようでもある。
 ヒンドゥー教世界と分かちがたく成立してきた仏教の世界。だが、現代日本においてはまた違う展開があるのだろうか。究極に個人主義的で同時に抱擁的な世界観。究極に楽観的で同時に死以上の死を希求する思想。それは現代世界においても意味をもつのだろうか。キリスト教の次に来るのは、イスラム教ではなく仏教なのかもしれない。

ゆかいな仏教 (サンガ新書)

ゆかいな仏教 (サンガ新書)

●仏教の信仰の核心は、メッセージとして伝わらなくても、《ブッダ(ゴータマその人)は、覚ったに違いない》と確信すること。その確信がすべてなのです。ここから、仏教のあらゆる性質を導くことができると思います。(P30)
キリスト教では、完全なのは神だけです。人間は、本質的に不完全で、その状態が「罪」です。それに対して、仏教は、その完全性を、人間が、というか個人が自力で何とか克服しよう、と考える。仏教は、人間中心主義、個人主義ですから。(P86)
●仏教にとって、動物の個体として生きているということは「苦」です。そして、死んだとしても、・・・輪廻転生してしまう。・・・ニルヴァーナは、輪廻から解脱しきった状態であるとすれば、それは死を超える死、永遠の死であると見なすことができます。ですから、まとまると、「永遠に生きることが救済だ」と考えているキリスト教と、「永遠に死にきることが救済だ」とする仏教。このように、解放の極点のイメージが、仏教とキリスト教では真逆になっている。そんな印象をもちます。(P90)
●Xが何であるかは、ゴータマ・ブッダが知っている。ゴータマは覚ったから。覚っていないひとは、Xが何かわからない。でもゴータマ・ブッダが覚ったということは信じているわけだから、Xは答えがあって、実在する。それにダルマと、名前をつけてあるんです。中身はだから、わからない。・・・ひと言で言うと、お釈迦さまが覚ったのが、真理で、ダルマです。では、何を覚ったの? あなたも覚ればわかりますよ、なんです。(P156)
●仏教は、中心に覚りという大きな「空」がある運動ですね。(P362)