とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

来たるべき民主主義

 「暇と退屈の倫理学」を読んでそこそこ面白かった。そこで、昨年出版されてそれなりに話題となった新書を読んでみようと思った。副題は「小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題」。そうだ、小平市都道328号線の住民投票を題材に、民主主義について語る本だったっけ。
 小平市都道328号線住民投票は本書でも説明されているように、市長が再選後、突然に投票率50%以上でないと開票もしないという条例改正を提案し、それが可決された結果、投票率35.1%で不成立となってしまった。その経験をもとに、実施必至型(常設型)住民投票制度やファシリテーター付き住民・行政共同参加ワークショップなどを提案するのは施策提案として興味深いが、本書のテーマはそこにあるのではない。
 まず、近代の政治哲学が、主権を立法権として定義してしまったが故に、実際は行政がすべてを決めているにも関わらず、そこにアプローチできない制度が民主主義として理解されていることを指摘する。カール・シュミットの「政治は突き詰めれば敵か友か」やハンナ・アレントの「多数性こそが政治の条件」といった言明を引いて説明していくところが面白い。その上で、政治哲学者の大竹弘二氏の論文を引いて、「世界を統べる神の意志は、天使のような使者によって伝達されるが故に、歪曲される可能性をもっている」と、行政権力と主権との乖離を指摘する。
 それを改革するために提案するのが、ドゥールーズの「制度が多ければ多いほど、国家は自由になる」という言葉を受けて、議会だけではなく、住民投票を始めとする多くの制度を作ろうという提案である。具体的には先述のとおり、ファシリテーター付き住民・行政共同参加ワークショップなどが挙げられる。
 本書は、小平市都道328号線問題がありきで説明がされるため、近代政治哲学の諸問題については表面的で浅いものとなっている感がある。後者を中心にもっと深堀した議論が聞きたい。きっと他の書物などではこうした論説がされていることだろう。引き続き、國分功一郎に注目していきたい。

●近代の政治哲学は、主権を立法権として定義し、立法権こそが統治に関わるすべての物事を決定する権力であると考えてきた。・・・この理屈は単純に誤っている。・・・立法府が統治に関して決定を下しているというのは建前に過ぎず、実際には行政機関こそが決定を下している。ところが、現在の民主主義はこの誤った建前のもとで構想されているため、民衆は、立法権力には(部分的とはいえ)関わることができるけれども、行政権力にはほとんど関わることができない。(P16)
●希望とは実際のところ、将来についての不確かな期待である。だからそこには必ず不安がある。不確かな期待は、必ず、「もしかしたらうまくいかないのではないか」という恐怖ないし不安を伴っている。・・・不安は強く人の心を揺さぶる。不安とは何だろうか? 不安は苦痛とは違う。不安とは、苦痛が訪れるかもしれないという気持ちである。たとえば」、失望という苦痛が訪れるかもしれない……そんな不安は、人に希望することそのものを恐れさせることがある。(P98)
●議会は私たちが政治に関してもっている制度の一つに過ぎない。ならば、制度をもっと増やすという考え方ができるのではないか?・・・主権者である民衆が政治に関わるための制度も多元的にすればいい。つまり、議会という制度は重要な制度であるから、これの改善はもちろんだ。しかし、議会の改善だけでなく、それと同時に、それと平行して、制度を追加していけばよい。「制度が多ければ多いほど、人は自由になっていく」。(P146)
●本書は複数の制度を議会制民主主義に補強パーツとして付加していくことを提案している。だが、どんなに制度が充実していっても、「今この瞬間に決まりました」というお墨付きは、議会が与えなければならないだろう。・・・そして、お墨付きを与えるという機能の担い手として議会は重要なのであり、どんなに議会制度に問題があろうとも、これを根本から改変したり、取り除いたりといったことを構想するのは、空想の域を出ないのである。(P192)
●実感は自然と出てくるものである。そしてこのような感覚は、現実を批判的に検討する際の出発点になる、とても大切なきっかけである。・・・ところが、そうした実感が時折、概念を経由することによって手元から離れていってしまうことがある。「民主的でない」という実感や感覚が、「民主主義」という概念を経由して変貌し、何らかの実体を求める要求になってしまうことがあるのだ。(P198)