とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

アトミック・ボックス

 昨年から池澤夏樹を読み始めた。まず「氷山の南」、ついで「双頭の船」。その間にエッセイ集も読んでいるが、長編小説としては3冊目。東日本大震災による被災者の鎮魂をテーマとする「双頭の船」も思いの深い作品だったが、本書では原爆製造計画がテーマになる。
 1969年に作成された外務省の内部文書「わが国の外交政策大綱」で明らかにされた「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」という文章を元に、秘密裏に進められた原爆製造研究に関わった技術者の死を契機に始まった彼の娘の冒険譚を描く。
 池澤夏樹自身が物理系の出身者だけに原爆製造技術に係る記述は専門的だし、また工学者の苦悩も表現している。原爆製造を巡る外交上の思惑や国家安全保障も大きなテーマの一つだ。だがそれ以上に読者をぐいぐいと惹きつけて離さないのが技術者の娘・宮本美汐の行動力だ。時に離島間を泳いで渡り、フェリーから飛び込んでスクリューをくぐり、新聞記者・竹西の協力を得て、多くの友人が陽動作戦を実施する。
 「よく公安に捕まらずに来られたな」と言われ、「友だちがみんなで助けてくれました」と答えるのはまさに胸がジンとくる。国家を守るために国民を犠牲にする政治家に対して、倫理の力で立ち向かい、「倫理的な負けだ」と言わしめる。最後は痛快に終わるところもうれしい。
 全編、池澤夏樹らしい明るさに満ちている。「双頭の船」が情愛に満ちた作品であるとすれば、本書は快活さにあふれている。しかし最近閣議決定された「エネルギー基本計画」が原発再稼働の方針を示していることを考えると、楽しいが同時に重い作品である。ますます池澤夏樹が好きになった。

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●普通、警察と聞くと人はそれだけですくんでしまう。自分の身に覚えのないことでも、とりあえず身を任せ、調べてもらおうと考える。きっと無実だとわかってくれるはずだ。それは司法のシステムに対する信頼であると同時に、日常は無縁な世界への関心の牛差であり怠惰である。犯罪なんて自分とは無関係だと思っているから、被害者になることはあっても加害者なんて別世界のことと思っているから、目の前の唯一の権威者である警察に寄りかかる。警察も検察も敵か味方かわからないのに。そこで弁護士や報道関係者は視野に入ってこない。警察もそちら側がなるべく目に入らないよう誘導する。(P118)
●そういうものも誰かが設計して製造するのだ、とその同級生は言った。工学に罪あり。しかし自分は深く考えなかった。工学はいつも注文に応じる側だ。何を作るかは設計者ではなく社会が決める。そこに踏み込むことはしない。そう考えていたから、ダガバジから目前の仕事は原爆を作ることだと聞かされた時、ショックではあったがとりわけの煩悶もなく受け入れた。むしろ技術者として一つの挑戦だと思った。設計どおりの機能を着実に果たすものを作る。その結果たくさんの人が死ぬことまでは考えない。(P332)
●彼は「発電は恐い」と言った。製造後は眠っていればいいだけの原爆に比べたら超臨界状態をずっと維持しなければならない発電所の方が恐い。それが現実になった。(P349)
●「宮本さん、よく瀬戸内海からここまで公安に捕まらずに来られたな」といきなり言われた。「友だちがみんなで助けてくれましたから」/相手はこちらの顔をじっと見た。それから笑顔になった。「それはね、あんた、私が考えていたどんな答えよりもいい答えだ。警察よりもあんたの言うことを信用する友だちがたくさんいるわけだ」(P385)
●歴史はトップに立つ政治家が作る。それと同時に社会を構成する数千万とか数億とかの庶民・市民・国民が作る。その間の段階で、庶民・市民・国民のうちの一人か二人が、何の心の準備もないままに、重大な役割を押しつけられて歴史に結果を残す。逃げられない。国はなにかと秘密を作る。しかし国の主体は官僚ではなく国民だから、国が作るものはすべて最終的には国民に属する。日米間の密約を報道した西山太吉ウィキリークスジュリアン・アサンジも盗んだのではなく奪還したのだった。パパと私は結果的に似たようなことをした。(P444)