とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

内田樹による内田樹

 内田樹内田樹が書いた本を批評する。そんなバカなと思うけど、実際は神戸女学院大学の大学院のゼミで、毎週1冊ずつ内田本を取り上げて論じる、という授業をベースに作られた本ということだ。もっともその講義録を読み返してみたら全然面白くなかった。それで結局ほとんど全面的に書き換えたそうで、結果、内田樹自身が内田本について解説するという形になっている。
 もっとも批評とか解説ということではなく、実際はゼミで取り上げられた本について、現時点で再び振り返り、当時を思い出したり、それらの本がテーマにしていることを現時点で再度論じたりしている。内容的には取り上げた本の中で書かれていたことがもう一度繰り返されていることが多いが、それは時間が経っても内田樹の考えは根本的なところでは変わっていないということであり、まあ内田ファンにとっては、けっこう安心して読むことができる。
 全体的に特別これまで内田樹が書いてきたことと大きく異なることはない。今回読んで感じたのは、内田樹は同じ内容のことを別の表現で繰り返すことが多いという点だ。最初は比喩も多く平易な文章で表現し、その直後に漢字を多用して同じ内容のことを学術的に書くといった繰り返しが多い。読者のレベルに合わせていくつも文章を用意しておくという感じか。
 取り上げられた書物の中には内田樹が翻訳したレヴィナスの著書「困難な自由」とレヴィナスの解説本「レヴィナス序説」が含まれる。これらはまだ私は読んでいない。でも書かれている内容は他の本で読んだ記憶のあるものだ。レヴィナス本は僕が読んで意味がわかるだろうか。読みたいような、やめておいた方がいいような。本書を読んでもまだ迷っている。ごめんね、内田樹先生。

内田樹による内田樹

内田樹による内田樹

●言っていることは正しい。でも・・・自分自身の中に彼らの正しさに共感できない、つよい身体的な違和感がある。この違和感はどこから由来するのか。それを言葉にするのが90年代を通じての僕の個人的な課題でありました。それは、周りの若い人たちが、彼らの圧倒的にロジカルに正しい言説に次々と屈服していったからです。屈服するのみならず、彼らから仕込んだ切れ味のいいストックフレーズを複製して、しゃべり方も、推論のしかたも、論拠とする事例まで、出来合いの型にはまっていた。・・・それは本人にしてみたら、知的負荷も少ないし、爽快感や全能感をもたらす気分のいい経験かもしれません。でも、僕は直感的に「そういうのはよくないぜ」と思っていました。個別識別ができなくなるから。切れ味のよすぎる思想的利器を使うことの最大のピットフォールはこれです。(P24)
●「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(『創世記』、12:1)/この言葉はアブラムにどんなふうに聞こえたのでしょう。おそらく雷鳴や地鳴りや暴風の音に類するものとして、どう考えても人間の声ではない非分節的音響として彼のもとに届いたはずです。神が人間と同じような語彙で、同じような文法で、同じような音韻で言葉を語るはずがありませんから。ですから、主が何を言っているのか、アブラムには理解できなかった。わかったのは「主は私宛てに何かを告げている」ということだけです。そして、その「何か」を聴き取るためには、こことは違う場所に出て行かなければならないと思った。(P97)
●人間は誰でも定型的にものを見ます。イデオロギー的なバイアスが必ずかかっている。それから自由な人間なんて存在しません。でも、自分にはどんなバイアスがかかっているのかを問うことはできます。バイアスがかかっているのは、理由があってのことです。そういうふうに歪めて世界を見た方が自己利益が増大するという見通しが立つから、僕たちは世界を歪めて見るのです。(P208)
●僕たちの世代が少年期に吉本隆明埴谷雄高谷川雁のような「戦中派」にすがるようなまなざしを向けてしまったのは、彼らは少なくとも前半生においては「どこの国にも従属していない国民」である経験を持っていたからです。・・・父たちの世代は敗戦によって、その自信と自負を打ち砕かれた。・・・それはたしかにトラウマ的な経験だっただろうと思います。でも、彼らは「これから日本はアメリカの従属国にならざるを得ないだろう」ということを意識していた。・・・「愚劣な指導者たちのせいで、私たちはこれからは従属国民になるのだ」という絶望と痛みを感じていた世代と、生まれてからずっと従属国民であったので、「従属国民でない」というのがどういう心的状態なのか知らない世代の間の落差はほとんど乗り越えがたいものだと僕は思います。(P233)