とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

死んでみたら大したことなかった。

 少し前に、某先生のお別れの会について報告をした。その中で、死の間際の言葉で、先生が「・・・気持ちよく死んでいきます。・・・死ぬのはどんなかと思っていたが、死んでみたら大したことなかった・・・」とおっしゃったことを書いた。
 ここ数年、私自身も死に対する恐怖をあまり感じなくなっている。もちろん、大きな痛みを感じたりするのは嫌だが、死そのものに対してはいつでも受け入れられるような気でいる。東日本大震災のせいだろうか。それとも娘が就職したからだろうか。こういうことを妻に言うと、そんなことを言ってはいけないと窘められるのだが、本心だからしょうがない。
 私たちが飛んでいる蚊をパンッと叩くように、死が突然にやってくる。蚊が一匹死んでも世界は大して変化がないように、人間が一人死んでも世界は大して変わらない。問題は世界にとってではなく、自分にとってだ。
 死に対する恐怖。それがあるから人は宗教にすがるのだろうか。輪廻転生を経て、涅槃の世界へ。ハルマゲドンを経て、天上界へ。不滅の魂。それらはいずれも、やがて自分に訪れる死が本当の死ではないことを願うものだ。たとえ死んでも魂は滅びず、別の形となって復活する・・・など。
 でもやっぱり、僕らは死ねば、焼かれれば煙となって、放置されれば腐って、この地球の元素の一つに還るのだ。そして、蚊がパンッと叩かれてその生命を終えるように、津波がやってきてすべてを押し流すように、いつか心臓の動きが止まり、脳への血流が途絶え、そして死んでいくのだ。死ねばそれは意識のない物質になるのだ。
 ただそれだけのことだ。蚊と自分と何が違うと言うのだ。最近、死に対してそんなふうに思っている。だから、先生の「死んでみたら大したことなかった。」という言葉は本当にそうだろうなあと信じられる。たぶん大したことはないのだと。
 でも、死よりも嫌なのは、死の前に痛みなどで苦しむことだ。また、自分の生命に対して自分自身は未練がなくても、家族や親族は未練があるかもしれない。まだ死ぬのは早い、と言うかもしれない。だから、もし私が死にそうになり、私の意識がなくなったら、私をどう扱うかはみんなの好きにしてもらえばいい。みんなが死んでもいいと思えば私はそれを受け入れるし、死んでは困ると思えば延命治療でも何でもすればいい。
 死とはなんだろう。こんなことを書きながら、実際、死に直面すればもっと無様な姿をさらすのかもしれない。これは健康で、人生に大きな悩みもない、今の私の思いに過ぎない。